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第一章 スコール
雨は、予告なしに落ちてきた。
午後四時を少し回ったところだった。トンローの通りの向こう、ビルの屋上の広告板が白く霞んだと思ったら、次の瞬間にはもう、空全体が崩れるみたいに雨が降っていた。軒先のテントを叩く音、排水溝に流れ込む水の匂い、濡れたアスファルトから立ちのぼる熱。バンコクの雨季の夕立は、いつも街の都合など聞かない。
ノイは店のドアを半分閉めかけていた。今日はもう客は来ないだろう。奥のカフェの席では、スタッフのミンがグラスを拭きながら、ラジオから流れる古いポップスに合わせて小さく鼻歌を歌っている。
ミン 「お姉さん、今日は早仕舞い?」
ノイ 「雨が止んだらね」
ノイがそう答えた時、ドアのベルが鳴った。
男は、ずぶ濡れだった。
薄いグレーのシャツは肩から背中にかけて濃く色を変え、濡れた布が身体の線に張りついている。髪は雨に打たれて額に落ち、革靴はつま先まで水を吸っていた。五十に近いくらいだろうか。四十半ばかもしれない。日本人だ、とノイはすぐに思った。濡れていることへの謝り方で分かる。男は店に入る前に玄関マットの上で立ち止まり、自分の靴の水を気にして、入っていいかと目で尋ねたからだ。
健二 「Excuse me. Can I just... stay here, until the rain stops?(すみません。雨が止むまで、雨宿りだけ、させてもらえますか)」
英語だった。丁寧で、少し固い英語。それに、息が切れていた。
ノイ 「Come in. Hurry, hurry(入って。早く早く)」
健二 「But my shoes are...(でも、靴が)」
ノイ 「Shoes later. Come(靴は後でいい。ほら)」
健二 「Thank you」(ありがとう)
ノイ 「Wow. You're all wet(うわ。ほんとにびしょ濡れだね)」
健二 「Sorry」(すみません)
ノイ 「Not your fault. It's the rain(あなたのせいじゃない。雨のせい)」
男は傘を持っていなかった。正確には、折り畳み傘を鞄から半分出しかけ、開こうとして、骨が一本折れていることに気づいた。
健二 「……肝心な時に」
思わず、という顔で日本語が漏れた。
ノイは少し笑って、日本語で返した。
ノイ 「それ、傘のつもり?」
健二 「えっ」
男が顔を上げた。
健二 「日本語?」
ノイ 「少し、ね」
健二 「少しどころじゃ……」
ノイ 「ほんとに少しだよ。―その傘、バンコクの雨に勝とうとしたの?」
健二 「……勝とうと、したんですけど」
ノイ 「あはは」
健二 「笑いますね」
ノイ 「笑っちゃった。ごめん」
健二 「……無理でしたね」
ノイ 「うん、無理」
男も笑った。笑うと目尻に皺が寄って、真面目そうな顔が急に近くなる。ノイはカウンターの下から店用の白いタオルを取り出して渡した。
ノイ 「まず拭いて。風邪ひく」
健二 「いいんですか?」
ノイ 「洗うから、平気」
タオルを受け取る時、男の指がノイの指に触れた。冷たかった。雨に冷えた男の指と、一日中店の中にいたノイの指。ほんの一瞬のことだったのに、ノイはその温度の違いを妙にはっきり覚えてしまった。
男はタオルで顔と髪を拭い、それから、ノイが何より印象に残ったことをした。
自分が濡らした床を、拭いたのだ。
ノイ 「あ、いいよ、そんなの」
健二 「僕が濡らしましたから」
男は屈み込んで、ドアの周りの水滴をタオルの端で丁寧に吸い取り、それからタオルを四つに折って、両手でノイに返した。
タイの客はもちろん、日本人の客だって、雨宿りに来て床まで拭く人は少ない。丁寧というのとは少し違う。自分が誰かの場所を汚したことを、放っておけない人なのだ、とノイは思った。
ノイ 「座って。お茶出すから」
健二 「いえ、そこまで」
ノイ 「雨、まだ止まないよ。座って」
有無を言わせない言い方になったのは、店主としての癖だ。男は小さく礼をして、カウンターに一番近い席に腰を下ろした。濡れたシャツが椅子の背に触れないよう、少し浅く座る。そういうところまで気を遣う人だった。
ノイはバタフライピーの花を浮かべた冷たいお茶を出した。雨の日は熱いものより、身体の中の熱を逃がす冷たいものの方が、タイでは喜ばれる。
健二 「……ああ、冷たい。ありがとうございます」
ノイ 「飲んでみて。まず飲んで」
一口飲んで、男はほっと息をついた。それから思い出したように背筋を伸ばした。
健二 「高木健二と申します」
ノイ 「タカギ?」
健二 「はい。四月から、この近くの会社に」
ノイ 「駐在員」
健二 「はい」
ノイ 「じゃあ、まだバンコク、新人だ」
健二 「三ヶ月です。新人、ですね」
ノイ 「雨に負ける新人」
男は苦笑した。健二、とノイは心の中で繰り返した。
ノイ 「私はノイ。店のオーナー」
健二 「ノイさん」
ノイ 「ノイでいい」
健二 「……ノイ」
ノイ 「うん」
健二 「呼び捨て、慣れなくて」
ノイ 「知ってる。顔に出てる」
日本人の男の人は、年下の女の呼び捨てに妙に緊張する。ノイはそういうところを、少し意地悪く観察するのが好きだった。からかうと、健二は本当に少しだけ困った顔をした。その困り方が、ノイには思ったより悪くなかった。
健二 「……いい匂いがしますね、この店」
ノイ 「私?」
健二 「ちがっ――店、店です」
言ってから、健二はしまったという顔をした。ノイは吹き出した。
ノイ 「冗談だよ。花でしょう、それ」
健二 「あ、はい。甘いような」
ノイ 「ジャスミン」
ノイはカウンターの端の小さい花器を指した。白い花が数輪、水に浮かべてある。
ノイ 「昨日、市場の花屋のおばさんがくれたの。雨の日は匂いが強くなる」
健二 「東京だと、雨はもう少し冷たい匂いがします」
ノイ 「東京の雨、寒いでしょう?」
健二 「この時期は。……バンコクの雨は、暖かいんですね」
ノイ 「暖かいんじゃなくて、暑いの」
二人は笑った。
他愛のない会話だった。健二は食品会社に勤めていて、タイの工場と日本の本社の間を行ったり来たりしていること。住まいはこの通りの先のコンドミニアムで、タイ語はまだ挨拶と数字しか分からないこと。辛いものは好きだが、市場の食堂で注文を間違えて泣きそうになったこと。
ノイは相槌を打ちながら、時々、健二の左手を見た。
薬指に、指輪の跡があった。
日焼けしていない白い線。つい最近まで、長いことそこに何かがあった証拠。健二がお茶のグラスを持つたびに、その白さが目に入った。
聞かなかった。ノイは、聞かれたくないことを先に聞く女ではなかったし、聞いたところでどうなるものでもないと知っていた。けれど、その白い跡のせいで、健二の丁寧さや、少し疲れた笑い方が、全部少しだけ違って見えた。
この人は、何かを終わらせてきた人だ。
根拠はなかった。ただ、そんな気がした。
雨は一向に弱くならなかった。
ドアのガラスの向こうでは、バイクタクシーの運転手たちがビニールの合羽を着て軒下に集まり、車の列が赤いテールランプを濡れた路面に滲ませていた。店の中だけが静かだった。ミンはいつの間にか鼻歌をやめ、カフェの奥で帳簿をまとめている。
ノイ 「家族は――」
言いかけて、ノイはやめた。左手の白い跡を見たせいだ。聞くべきじゃないと、頭では分かっていた。
ノイ 「あ、ごめん。今のなし」
健二 「家族、ですか?」
ノイ 「うん。でも、答えなくていい」
健二 「去年、離婚しました」
あっさりしていた。あっさりしすぎていて、ノイの方が動揺した。
ノイ 「……え!」
健二 「隠すことでもないので」
ノイ 「ごめん。本当に」
健二 「謝るほどじゃ」
ノイ 「謝るほどだよ。私、失礼だった」
健二 「じゃあ、少しだけ謝ってください」
ノイ 「少し?」
健二 「ええ。少し」
健二は笑った。でも、その笑いはすぐに消えた。グラスの水滴を、指で一度なぞった。
健二 「十五年いました。……最後の方はね、会社みたいでした」
ノイ 「会社?」
健二 「役割分担。連絡事項。……それだけが、残って」
最後の言葉が、少し掠れた。
店の中が、急に静かになった気がした。雨の音だけが大きかった。
ノイ 「それ、寂しいやつだね」
健二 「……はい」
ノイ 「ごめん。また変なこと」
健二 「いえ。今のは、謝らなくていいです」
ノイは自分のグラスに口をつけた。何か言わなければ、と思ったのに、言葉が出なかった。その静かさなら知っている、と、胸の奥でだけ思った。同じ食卓で、別の方を向いて座る静かさ。言いたいことがあるのに、言えば面倒になるから飲み込む静かさ。
口に出したら、雨宿りの客に話す話ではなくなってしまう。
健二 「……ノイこそ」
ノイ 「何」
健二 「ずっとバンコクに?」
ノイ 「ううん。チェンマイ」
健二 「チェンマイ?」
ノイ 「北の方の街 ....生まれはそっち。バンコクは、もう七年。店は五年」
健二 「ご主人は、チェンマイに?」
ノイの手が、グラスの上で止まった。
ノイ 「いない」
健二 「あ!」
ノイ 「今は、いないよ」
笑った。笑えたはずだった。でも最後の「よ」が少しだけ弱くなったのを、自分でも聞いた。
健二は何も言わなかった。気づいたのか、気づかないふりをしてくれたのか、分からない。その沈黙が、追いかけて聞かれるよりずっと優しくて、ノイは少し困った。
チェンマイのことも、式のことも、夫と呼ばれた男のことも、話すつもりはなかった。本当に、なかったのだ。
カウンターの上のスマートフォンが震えた。
メールの通知だった。差出人は、日本の百貨店のバイヤー。画面には、英語の件名が見えた。
――Spring Pop-up, Tokyo. Proposal for next season(来季の東京ポップアップのご提案)。
ノイは画面を伏せた。まだ決まっていない話は、誰にも言わない。うまくいくかもしれないし、いつものように、最後のところで流れるかもしれない。
健二 「仕事?」
ノイ 「うん。日本の会社から」
健二 「英語のメールか」
ノイ 「そう。あとは、日本語も少し。勉強してる」
健二 「日本語、上手ですよ。さっきから」
ノイ 「ありがとう。でも、難しい言葉はまだ無理」
本当は、もう少し読めた。言わなかった。言葉がどこまで通じるかは、初対面の相手に全部見せるものではないと、ノイはチェンマイで学んでいた。分かるのに分からないふりをすることと、嘘をつくことは違う。自分の身を守るための、静かな距離だった。
その時、奥のミンが声を上げた。
ミン 「ピー・ノイ(ノイお姉さん)、裏口、水が入ってきてる」
ノイは立ち上がった。裏の勝手口の下から、濡れた床がじわじわと広がっている。排水が詰まったのだ。雨季には時々あることだったが、今日は布の入った段ボールが床に置きっぱなしになっていた。チェンマイから届いたばかりの、藍染めの布だった。
ノイ 「ミン、バケツ! 早く、バケツ!」
ミン 「は、はい!」
ノイが段ボールに手をかけた時、先に健二が立ち上がっていた。
健二 「どれ」
ノイ 「え?」
健二 「どれを運ぶんですか」
ノイ 「いい、あなたは座ってて」
健二 「座って見てろと?」
ノイ 「だってお客さん」
健二 「ノイ」
ノイ 「……何」
健二 「落ち着きません、見てるだけは」
健二はもう袖を捲っていた。
ノイ 「濡れるよ」
健二 「もう濡れてます」
ノイ 「あ、そっか」
健二 「ええ」
ノイ 「じゃあ、はい、これ。重いよ」
健二 「大丈夫です」
ノイ 「ほんとに重いって」
健二 「持ち上げてから言います」
言われてみればその通りで、ノイは笑ってしまった。健二はシャツの袖を肘まで捲り、素手で段ボールの底を抱えた。重い布の束は水を吸った分だけずっしりしていたが、健二は顔色ひとつ変えず、ノイの指した高い棚の下まで運んだ。二往復目には、もう指示しなくても次の箱に手をかけていた。
狭い通路ですれ違う時、ノイは健二の腕が自分の肩に触れそうになるのを避けて、壁際に身を寄せた。濡れたシャツの布の匂いと、雨に冷えた皮膚の匂いが、ほんの近くを通り過ぎた。
健二 「すみません」
ノイ 「ううん」
謝るほどでもない距離だった。謝られたから、かえって意識した。ノイは棚の布を直すふりをして、自分の手が少し急いでいるのを見た。
三つ目の箱を運び終えると、健二は勝手口の排水口に屈み込んだ。

健二 「葉っぱが詰まってますね」
ノイ 「健二さん、そんなところ触らなくて」
健二 「素手じゃなくて、これで」
健二は割り箸を一膳借りて、排水口に詰まった濡れ葉とビニールの切れ端を器用に掻き出した。駐在員という肩書きの男が、女の店の裏口で排水口を掃除している。その姿はおかしくて、少し変で、そしてノイには、変な言い方だが、悪くなかった。
水がごぼりと音を立てて流れ始めた。
ノイ 「直った」
ノイ 「ありがとう。本当に助かった」
健二 「お礼は、お茶で十分いただきました」
ノイ 「じゃあ、今度は本当にシャツ買ってね。二枚」
健二 「二枚ですか」
ノイ 「排水口まで掃除したんだから」
二人は顔を見合わせて笑った。
健二が袖を下ろす時、左手の薬指の白い跡が、濡れて少しだけ際立って見えた。ノイは目を逸らした。笑っている時に見るものではない気がした。
夕方六時を過ぎて、雨はやっと小降りになった。
健二 「そろそろ――」
ノイ 「まだ降ってるよ」
健二 「小降りに、なりました」
ノイ 「コンドまで何分?」
健二 「歩いて、七、八分」
ノイ 「じゃあ走れば」
健二 「走れば?」
ノイ 「濡れるって」
健二は立ち上がりかけていたのに、笑ってまた財布に手を伸ばした。
健二 「お茶、ごちそうさまでした。いくらですか」
ノイ 「要らない」
健二 「そういうわけには」
ノイ 「雨宿りからお金取る店、嫌でしょう」
健二 「でも」
ノイ 「しつこいよ」
健二 「……はい」
ノイ 「じゃあ約束。今度、シャツ買う」
健二 「シャツ」
ノイ 「ほら、あれ」
ノイは店の一角を指した。窓際に、麻のシャツが数枚かかっている。生成りと、白と、一枚だけ、水色に近い青。
健二は立ち上がって、その青いシャツの袖に触れた。
健二 「いい色ですね」
ノイ 「あなたに似合うと思う」
健二 「営業ですか」
ノイ 「うん、営業」
ノイは笑って、店の傘立てから大きな紺色の傘を抜いた。店の名前が小さく入った、客用の傘だ。
ノイ 「これ」
健二 「傘」
ノイ 「持っていって」
健二 「でも、店の」
ノイ 「貸すだけ」
健二 「明日、雨だったら」
ノイ 「明日、返しに来る」
健二 「……え」
ノイ 「だから、返しに来ればいいでしょう」
自分で言ってから、ノイは少しだけ後悔した。誘っているみたいに聞こえたかもしれない。でも健二は、そういう下心の拾い方が下手な男だった。
健二 「明日は土曜日ですが、店は」
ノイ 「開けてる。十時」
健二 「十時ですね」
ノイ 「覚えた?」
健二 「覚えました」
健二は傘を両手で受け取って、真剣な顔で言った。
健二 「必ず返します」
ノイ 「傘一本で」
健二 「え」
ノイ 「傘一本で、そんな顔しないで」
健二 「借りたものは」
ノイ 「返すのが当たり前。知ってる。顔に出てる」
健二は笑い、それから少しだけ困ったように言った。
健二 「……はい」
ノイ 「うん。じゃあ、待ってる」
健二はドアを開けた。湿った風と一緒に、雨上がりの街の匂いが入ってきた。屋台の油の匂い、濡れた葉の匂い、遠くの寺の鐘のような、バイクのクラクションの残響。
健二 「ノイ」
ノイ 「何」
健二 「Thank you for... today(今日は、ありがとう)」
不意に英語に戻った。礼を言う時、この人は一番慣れた言葉の型に戻るのだ、とノイは思った。
ノイ 「日本語で、言って」
健二 「え」
ノイ 「もう一回。日本語で」
健二 「……今日は、ありがとう」
二度目の方が、ずっと下手で、ずっと本当だった。
ノイ 「……気をつけて。道、滑るよ」
早く行きなさい、という代わりに出た言葉だった。ノイは自分で聞いて、少し驚いた。
健二は傘を差して通りに出た。紺色の傘が、夕方の人混みの中で一度だけ振り返り、それから角を曲がって見えなくなった。
ミンが奥から顔を出した。
ミン 「ピーノイ、あの人、戻ってくると思う?」
ノイ 「傘、返しに来るでしょう」
ミン 「そういう意味じゃなくて」
ノイ 「ミン!」
ミン 「はいはい。仕事します」
ノイは笑って、カウンターを拭いた。
健二が座っていた席には、きれいに折り畳まれたタオルが残っていた。洗って、干して、畳んで返したつもりのタオルを、男は使う前よりきれいな形にして置いていったのだ。
ノイはそのタオルを手に取り、指先で四つ折りの角を撫でた。
変な人、と思った。
そして、少しだけ、困ったとも思った。こういう地味なことをする男を、女は意外と長く覚えてしまうからだ。
健二は、店を出て、すぐにコンドミニアムへは帰らなかった。
通りの向かいにあるデパートが、まだ開いていた。一階の紳士用品の売り場で、健二は傘の棚の前に立った。
折り畳み傘が、色とりどりに並んでいた。軽くて、小さくて、鞄に入る。今までの健二なら、迷わずそちらを取っていたはずだった。手が、一度、そちらに伸びかけた。
健二は隣の棚から、折り畳みでない傘を一本抜いた。深い緑色で、骨が太く、ずっしりと重かった。値段は、折り畳みの倍近くした。安いものを買って、肝心な時に骨を折るのは、もう嫌だった。値札を裏返して、少しだけ考えて、それでも健二は、その傘をレジに持っていった。売り場の店員が、確認のために一度だけ広げて見せた。布が張る、しっかりした音がした。少なくとも、今日折れた傘の細い骨とは、訳が違った。
そういう小さな諦めの積み重ねが、自分の十五年だったような気がした。
コンドミニアムの部屋は、静かだった。
四月に届いた段ボールが、二つ、まだ開かずに部屋の隅に残っていた。中身は、開ける必要のないものばかりだった。台所の棚には、一人分の皿と、一人分の箸と、一本のグラス。二人分の食器の音がした台所を、健二はまだ覚えていた。
健二は買ったばかりの傘を玄関に立てかけ、シャツの胸ポケットを探った。昼間、店のカウンターで何気なく受け取った、ノイの店の名刺が出てきた。英語とタイ語で、店の名前と住所と電話番号が刷られた、小さな紙。
それ以上のことは、何も書かれていなかった。当たり前だった。なのに健二は、しばらくその紙を見ていた。紙には、ほのかに店の匂いが移っていた。ジャスミンと、布と、雨上がりの匂い。昼間、タオルを受け取る時に触れた、ノイの指の温度まで思い出して、健二は名刺を裏返した。
裏は、白かった。それから、財布のいちばん見やすい場所に、名刺を入れた。入れてから、自分でもおかしくなって、健二は苦笑した。四十六にもなって、名刺一枚にこんな扱いをする男が、どこにいるだろう。
明日の段取りを考えてから、健二は少しだけ、自分に呆れた。
健二はシャワーを浴びてから、ベランダに店の傘を開いて干した。
紺色の傘は、バンコクの夜の湿った風の中でゆっくりと乾いていった。健二は缶ビールを一本だけ開けて、欄干にもたれた。眼下ではトンローの通りが濡れた光を返し、屋台の客の笑い声が遠くまで届いていた。
離婚してから、夜が長くなった。
東京の家では、夜は妻との沈黙の時間だった。同じ部屋にいて、別の画面を見て、必要なことだけを短く言い合う。あの沈黙に比べれば、一人でいる沈黙の方がまだ正直だった。それでも今日は、その一人きりの静けさが、いつもと少し違って感じられた。
ジャスミンの匂いのせいかもしれない。
脱いだシャツを洗濯籠に入れる時、雨と一緒に、店の花の甘い匂いがほのかに残っていた。健二はシャツを手に取ったまま、しばらく立っていた。
笑う時のノイの目。グラスを回す指。日本語の合間に、時々見せる値踏みするような視線。雨宿り先の店主のことを、こんなに思い返すなど、我ながら単純だと思った。
鏡の前で手を洗う時、薬指の白い跡が目に入った。
指輪は去年の秋に外した。跡はまだ消えない。十五年という月日は、身体の表面にまで残るのだと、健二は思った。消えるまでに、どれくらいかかるのだろう。消えたら、自分はまた誰かを好きになっていいのだろうか。そんな資格のようなものを、誰に許しを請う必要があるのかも分からなかった。
健二はスマートフォンで、翌日の予定を確認した。土曜日。本当なら部屋で報告書をまとめる日だった。
アラームを、九時にセットした。
店は十時からだ。それだけのことが、今日の夜を少しだけ短くした。
*
翌日のトンローは、嘘みたいに晴れていた。
濡れた路面は朝の光を反射して光り、屋台の煙と排気ガスと、市場で潰れたマンゴーの甘い匂いが通りに満ちていた。雨季のバンコクは、昨日の嵐などなかったような顔をする。
ノイが店のシャッターを上げて、花器の水を替えていると、十時五分、ドアのベルが鳴った。
健二 「Good morning(おはようございます)」
反射みたいに英語で言ってから、健二は自分で気づいた。
健二 「……おはようございます」
ノイ 「うん。日本語の方が上手くなった」
健二 「一晩で?」
ノイ 「一晩で!」
健二だった。
昨日とは違って、今日は乾いていた。白いポロシャツにチノパン、濡れていない革靴。それでもノイの目には一瞬、雨に濡れた昨日の男の姿が重なった。肩の線とか、笑った時の目尻とか、そういうものは乾いても変わらなかった。
健二は両手で傘を差し出した。店の紺色の傘は、水滴ひとつなく、布の皺まで伸ばして畳まれていた。
健二 「お借りした、傘です」
ノイ 「……乾いてる」
健二 「ベランダで干しました」
ノイ 「一晩?」
健二 「はい」
ノイ 「誰もそこまでしないよ」
健二 「する人も、います」
ノイ 「あなたみたいな人ね」
健二 「そう、ですね」
健二は照れたように目を逸らした。その仕草が、昨日タオルを四つに折った男とつながって、ノイは理由もなく納得した。この人のこういうところは、演技ではない。染みついたものだ。
健二はもう片方の手に持っていた小さい紙袋を、おずおずと差し出した。
健二 「あと、これ」
ノイ 「何」
健二 「お礼です。ハンカチ。日本の、ただの」
ノイ 「傘一本に?」
健二 「タオルも」
ノイ 「あれ店のタオル」
健二 「お茶も」
ノイ 「健二さん」
健二 「はい」
ノイ 「言い出したら、止まらないタイプ?」
健二 「……かもしれません」
ノイは吹き出した。健二も、つられたように笑った。
ノイ 「負けた。もらう」
健二 「ありがとうございます」
ノイ 「お礼を言われるの、私の方なのに」
袋の中には、白地に紺の刺繍の入った薄いハンカチが入っていた。上品で、地味で、いかにもこの人らしい選び方だった。派手な花束でも、高価な菓子でもない。女に物を贈ることに慣れていない男が、店で長いこと迷って選んだのだろうと想像できて、ノイは少し笑ってしまった。
ノイ 「ありがとう。大事にする」
健二 「あの...」
健二は店の一角に目をやった。昨日触れた、水色に近い青い麻のシャツが、朝の光の中で昨日より明るく見えた。
健二 「昨日のシャツ、見てもいいですか」
ノイ 「営業成功だ」
健二 「そういうことになりますね」
ノイ 「サイズは?」
健二 「日本のLですが、こちらでは」
ノイ 「じゃあ、持ってくる。待ってて」
ノイはシャツをハンガーから外し、健二に手渡した。受け取る健二の指が、またほんの少しだけ、ノイの指に触れた。今度は雨に冷えていなかった。温かかった。
ノイ 「試着室、あっち」
健二はシャツを持って歩き出し、カーテンの前で一度振り返った。
健二 「ノイは、どの色がいいと思いますか」
ノイ 「着てみたら分かる」
カーテンが閉まる音を聞きながら、ノイはカウンターに戻り、ハンカチの入った紙袋を大事そうに引き出しへしまった。自分でも、その仕草が少し大げさだと思った。
ただの雨宿りの客。ただの傘の返却。ただのシャツの一枚。
そう言い聞かせるほど、どれも「ただの」ではなかった昨日からの続きに、ノイは気づいていた。
試着室のカーテンの向こうで、衣擦れの音がした。
(第一章 終わり)
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