
読了時間:第二章 試着室:約18分(8,921字)
第二章 試着室
カーテンの向こうで、衣擦れの音がした。
ノイはカウンターに戻ったはずだった。ハンカチの紙袋を引き出しにしまい、グラスを洗い、いつもの土曜日の朝の顔に戻るはずだった。なのに足は試着室の近くで止まって、耳だけがそちらに残っていた。
シャツを脱ぐ音。ボタンを外す、小さな音。ハンガーにかける音。
聞くな、と自分に言った。店主が客の着替えの音に耳を澄ますなど、どうかしている。
健二 「ノイ」
カーテンの向こうから呼ばれた。
ノイ 「何」
健二 「これ、少し」
ノイ 「小さい?」
健二 「肩が。……少し、きついです」
ノイ 「はいはい。L持ってくる」
棚から同じ青のLサイズを下ろす。試着室に戻ると、カーテンが少しだけ開いて、健二の手が出てきた。
ノイ 「こっち」
健二 「はい」
シャツを渡す時、指が触れた。昨日ほど冷たくない。今朝も、温かい。
カーテンの隙間から、ほんの一瞬だけ、肩が見えた。シャツを脱いだ男の肩。昨日、雨に濡れた布の下にあった線が、布なしでそこにあった。
ノイは素早く目を逸らした。
ノイ 「見てないよ」
健二 「……え」
ノイ 「見てないって」
健二 「何も言ってません」
ノイ 「顔に、見たでしょうって出てる」
健二 「出てません」
ノイ 「出てる」
カーテンの向こうで、健二が小さく笑った気配がした。
健二 「I'm not looking either(僕も見てません)」
ノイ 「英語で言えばごまかせると思ってる?」
健二 「ごまかせてませんか」
ノイ 「ごまかせてない」
衣擦れの音が再びした。今度は、袖を通す音。ボタンが、ひとつ、またひとつ、留まっていく音。
ノイ 「どう?」
健二 「悪くない、と思います」
ノイ 「出てきて。見せて」
健二 「はい」
カーテンが開いた。
健二が立っていた。水色に近い青の麻のシャツ。朝の光の中で、昨日の店で見た色より少し深く見えた。肩の線はちょうど合っていた。昨日ずぶ濡れだった男と、同じ男だとは思えないくらい、乾いた男は整っていた。
でも、襟が少し曲がっていた。ボタンも、上から二つ目が穴に半分しか入っていない。
ノイ 「惜しい」
健二 「どこがですか」
ノイ 「ここ」
ノイは近づいて、襟を直した。指先が健二の首筋に触れた。健二の喉が、小さく動いた。
ノイ 「動かないで」
健二 「はい」
ノイ 「ボタン、ずれてる」
健二 「それは、自分で」
ノイ 「いいから。動かないで」
二つ目のボタンを外し、留め直す。麻の布越しに、健二の胸の熱があった。ノイの指先は、普段、客の服を直す時にもっと速く、もっと事務的に動く。今朝は違った。自分でも分かるくらい、遅かった。
この遅さを、相手も気づいているだろうか。
健二 「……ノイ」
ノイ 「何?」
健二 「近い、です」
ノイ 「仕事だから」
健二 「仕事?」
ノイ 「うん。仕事」
言いながら、ノイは最後の確認みたいに、シャツの前立てを上から下へ手のひらで撫でて整えた。健二の息が、一度だけ止まったのが分かった。
分かったのに、手を止めなかったのは、どちらのせいだろう。
ノイ 「袖、捲る?」
健二 「捲りますか」
ノイ 「その方が似合う。ほら、手出して」
健二が右手を差し出した。ノイは袖口を二つ折りにした。次に左手。薬指の白い跡が、目の前にあった。昨日より近くで見る白さは、想像していたよりずっと生々しかった。十五年、そこにあったもの。十五年、誰かの隣にあった手。
ノイの指が、その跡の上を一度だけ、撫でるみたいに通った。
触るつもりはなかった。本当に、なかった。
ノイ 「あ」
ノイ 「ごめん」
健二 「いえ」
健二の声が少し低くなった。
健二 「いえ、平気です」
ノイ 「……うん」
ノイは左手の袖を仕上げて、離れた。一歩だけ下がった。それで足りるはずの距離だった。
その時だった。
試着室の横に置いてあった籠が、ノイの踵に触れた。バランスを崩すほどではなかった。ほんの少し、身体が傾いだだけだった。
健二の手が、伸びた。
ノイの肘を、掴んだ。倒れないように、という手だった。それが、止まらなかった。掴んだ手が、肘から、ほんの一瞬だけ、腰の方へ滑るように――。
ノイ 「待って」
声が出た。思ったより、はっきりと。
健二の手が止まった。
すぐに、離れた。一秒も、ためらわなかった。
健二 「すみません」
ノイ 「……」
健二 「本当に、すみません。今のは」
ノイ 「分かってる」
健二 「分かって、ますか?」
ノイ 「倒れると思ったんでしょう」
健二 「はい」
ノイ 「うん。分かってる」
店の中が静かだった。カフェの冷蔵庫の低い音だけが聞こえた。
ノイは自分の心臓の音を聞いた。速かった。怒っているのではない。怒っていたら、もっと簡単だった。
言った瞬間に、手が離れた。
そのことが、掴まれたことよりずっと、ノイの中に残った。男の人は、止められて怒るか、笑ってごまかすか、どちらかだと、ノイは知っていた。謝って、距離を取って、こちらの答えを待つ男は、あまり知らなかった。
ノイ 「次から」
健二 「はい」
ノイ 「声、かけて。……手の前に」
健二 「はい」
ノイ 「……じゃあ、赦す」
健二 「ありがとうございます」
ノイ 「堅い!」
健二 「すみません」
ノイ 「それも堅い」
健二 「……じゃあ、何と」
ノイは少し笑った。笑えた。空気が、元に戻っていくのが分かった。戻していい空気かどうかは、まだ分からなかったけれど。
ノイ 「まあ、いいよ。シャツ、似合ってるし」
健二 「話題を変えましたね」
ノイ 「変えた」
健二 「はい」
ノイは健二を、店の柱の鏡の前に立たせた。
ノイ 「ほら、自分で見て」
健二 「……」
ノイ 「どう」
健二 「思ったより、若く見えます」
ノイ 「思ったより?」
健二 「四十六ですから」
ノイ 「タイではね、四十六はまだ若いよ」
健二 「そうですか」
ノイ 「うん。枯れてる場合じゃない」
健二 「枯れては...」
ノイ 「少し、枯れかけてた」
健二 「……手厳しい」
健二は鏡の中の自分を、まじまじと見た。それは、服を見る目ではなかった。自分という男を、久しぶりに外から見る目だった。
健二 「服は、だいたい」
ノイ 「だいたい?」
健二 「妻が、選んでいました」
ノイ 「あ」
健二 「いえ、今の話じゃなく。……スーツも、シャツも。僕は着るだけだったから」
言ってから、健二は自分でその言葉に気づいたようだった。少し笑って、誤魔化すように襟を触った。
健二 「だから、こうやって選んでもらうの、久しぶりで」
ノイ 「選んでるのは、健二さんだよ」
健二 「そう、ですね」
ノイ 「私は、ほら、並べてるだけ」
健二 「並べ方が、上手いんです」
ノイ 「営業トークの練習?」
健二 「本心です」
ノイ 「……はいはい」
ノイは鏡の横に立って、健二の姿をもう一度見た。青いシャツの男。昨日、雨に濡れて店に逃げ込んできた男。誰かに選ばれた服を着るだけだった男が、自分の色を選ぼうとしている。
大げさだ、とノイは思った。シャツ一枚に、そんな物語を重ねるのは。
でも、女は知っている。人生が変わる時というのは、だいたい、こういう小さいところから変わるのだ。
ドアのベルが鳴った。
欧米人のカップルだった。女の方が、棚のスカーフに目を輝かせている。ノイは一瞬で店主の顔になった。
ノイ 「Welcome! Please, look around. That one is handwoven in Chiang Mai(いらっしゃい。ご自由に見てね。それ、チェンマイの手織りなの)」
女性客 「Oh, it's beautiful!」
ノイ 「For you, this colour. Try(あなたには、この色。ほら、巻いてみて)」
ノイの英語は、健二への固い英語とは違った。速く、明るく、商売の英語。スカーフを女の肩にかける手つきも、鏡の前に誘導する足取りも、淀みがなかった。
健二は、少し離れたところから見ていた。値段を聞かれ、少し高いと渋る男の方に、ノイは笑顔のまま言った。
ノイ 「Not expensive. One piece, three days of work(高くないわ。一枚作るのに、三日かかるの)」
男性客 「Three days?」(三日?)
ノイ 「Yes. So, be nice to her, and buy it(ええ。だから彼女に優しくして、買ってあげて)」
男は笑って、財布を開けた。
レジで袋に詰めながら、ノイは健二の視線に気づいた。
ノイ 「何?」
健二 「……何でも」
ノイ 「顔」
健二 「いえ。英語、商売上手だなと」
ノイ 「私、商売人だよ」
健二 「はい」
ノイ 「さっきの英語とは、違うでしょう」
健二 「さっき?」
ノイ 「I'm not looking either、の人とは?」
健二 「あれは」
ノイ 「あれは、何?」
健二 「……忘れてください」
ノイ 「忘れない」
健二 「英語は、どこで」
ノイ 「ここ」
健二 「店で、ですか」
ノイ 「うん。お客さんに教わった。間違えると、笑われるから覚える」
健二 「日本語も?」
ノイ 「日本語は……」
ノイは少し考えた。
ノイ 「ドラマ」
健二 「ドラマ?」
ノイ 「うん。日本のドラマ。字幕つき」
健二 「何のドラマですか」
ノイ 「教えない」
健二 「何故」
ノイ 「健二さん、笑うから」
健二 「笑いません」
ノイ 「絶対、笑う」
健二 「……恋愛もの、ですか」
ノイ 「はいはい、次行こう。シャツ、決めた?」
本当は、ドラマだけではなかった。日本の百貨店と取引したいなら、日本語が要る。メールを読み、電話で話し、自分の店のものを自分の言葉で売る。そのために始めた勉強だった。でも、それはまだ、誰にも言わない夢の部分だった。夢は、笑われない場所に置いておくものだと、ノイは思っていた。
カップルが出ていくと、店にまた静けさが戻った。ミンがカフェの奥から顔を出して、にやにやしていた。
ミン 「ピー・ノイ、試着室、長くなかった?」
ノイ 「ミン」
ミン 「お客さん、まだシャツのままだし」
ノイ 「買うかどうか、見てる最中」
ミン 「ふーん」
ノイ 「ミン!」
ミン 「仕事します」
健二はシャツの袖を、もう一度自分で直した。
健二 「では、これを」
ノイ 「うん」
健二 「と、昨日言われた、もう一枚」
ノイ 「言われた?」
健二 「排水口、掃除したので。二枚、と」
ノイ 「あれ本気にするんだ」
健二 「はい」
ノイ 「じゃあ、白。白も似合うよ」
健二 「では、白も」
ノイ 「白は、着てみる?」
健二 「……はい」
健二は試着室に消えた。カーテンが閉まる。二度目なのに、ノイの耳はまた衣擦れの音を追っていた。
白いシャツで出てきた健二は、青の時より少しだけ、東京の男に戻って見えた。きちんとして、正しくて、どこか疲れた男。
健二 「どうですか」
ノイ 「悪くない」
健二 「悪くない、だけ」
ノイ 「青の方が、似合う」
健二 「そうですか」
ノイ 「うん。白だとね、少し、真面目すぎる」
健二 「真面目は...」
ノイ 「悪くないよ。でも、今日の健二さんには、青」
襟を直そうとして、ノイは手を止めた。
ノイ 「……直すね」
健二 「はい」
ノイ 「声かけたよ、今」
健二 「気づきました」
ノイ 「約束、したから」
健二 「僕との、ですか」
ノイ 「うん。お互い、ね」
指先が襟に触れた。さっきより、ずっと短い接触だった。それなのに、さっきより、ずっと意識した。健二も同じらしかった。喉がまた、小さく動いた。
ノイ 「これで」
健二 「ありがとうございます」
ノイ 「白も買う?」
健二 「買います。……白は、仕事用に」
ノイ 「使い分けるんだ」
健二 「はい。青は」
健二は言いかけて、やめた。
ノイ 「青は、何?」
健二 「……休みの日に」
ノイ 「うん」
健二 「来週の、土曜とか」
ノイはレジの方へ逃げるように歩いた。逃げながら、嬉しい自分に気づいていた。
その時、店のドアがまた開いた。
隣の食堂のおばちゃんだった。ナーさん。六十過ぎで、ノイがバンコクに来た頃から目をかけてくれている人だった。手にはマンゴーの入った袋。
ナーさん 「น้อย ยังไม่ได้กินข้าวเที่ยงใช่ไหม เอานี่ ให้ (ノーイ、お昼、まだでしょう。これ、あげる)」
タイ語だった。ナーさんは袋を掲げて、それから健二に気づいた。目が、少し細くなった。
ナーさん 「あら、お客さん?」
ノイ 「うん。日本の」
ナーさん 「ハンサムねえ」
ナーさんは悪びれずに言い、それから、ごく自然な調子で、ノイに聞いた。
ナーさん 「そういえば、สามีเธอ ไม่เห็นมาช่วยเลย (あんたの旦那、最近、店に手伝いに来ないねえ)」
สามี(旦那)。
そのタイ語を、近所の人は今でも使う。直すのも面倒で、ノイは直してこなかった言葉だった。
ノイの笑顔が、止まった。
ノイ 「เลิกกันแล้ว ป้านา (もう別れたの、パー・ナー)」
ナーさん 「あら」
ノイ 「นานแล้ว (だいぶ経つよ)」
短く答えたつもりだった。でも、言葉より先に、手が動いていた。カウンターの上の布を、意味もなく畳み直していた。
ナーさんは、それ以上聞かなかった。タイの年寄りは、聞かない時の距離の取り方が上手い。
ナーさん 「งั้นเอามะม่วงไปสิ หวานนะ (じゃあ、マンゴー。甘いよ)」
ノイ 「ขอบคุณ ป้านา (ありがとう、パー・ナー)
袋を受け取る。ずっしりと重かった。熟れたマンゴーの、濃い甘い匂いがした。
ナーさんが帰る時、ドアのところで健二が言った。
健二 「持ちます、そこまで」
ノイ 「え」
健二 「袋、重いでしょう。店の前まで」
ナーさんの店は二軒隣だった。本当に、すぐそこだった。それでも健二はマンゴーの袋と、ナーさんが持っていた買い物袋まで両手に提げて、店の前まで歩いた。ナーさんが何かタイ語で言い、健二は分からないなりに笑って頭を下げていた。
戻ってきた健二は、何も聞かなかった。
タイ語が分からないからではない、とノイは思った。分からないなりに、空気は読める人だった。ノイの笑顔が止まったことも、手が布を畳み直したことも、たぶん見ていた。その上で、何も聞かなかった。
ノイ 「……マンゴー、一個あげようか」
健二 「いいんですか?」
ノイ 「ナーさんの店の前までで、二軒隣だけど」
健二 「歩きました」
ノイ 「三歩くらい」
健二 「歩数は、歩数です」
ノイ 「はい、じゃあ一個」
ノイはカウンターの下から小さいナイフを出しかけて、やめた。切ってやるのは、近すぎる気がした。袋から一個選んで、そのまま渡した。
ノイ 「部屋で切って。熟れてるから、今日」
健二 「ありがとうございます」
ノイ 「あのさ」
健二 「はい」
ノイ 「さっき、ナーさんが言ったこと」
健二 「……」
ノイ 「気にしなくていいよ。昔の、話だから」
健二 「はい」
ノイ 「聞かないんだ」
健二 「聞いてほしい時は、ノイが話すでしょう」
ノイはマンゴーの袋の口を結びながら、その言葉を繰り返した。聞いてほしい時は、ノイが話すでしょう。
簡単なことを言う男だ、と思った。簡単なことを、簡単にはできない男が多すぎる世界で。
健二は店の中を、改めて見るようにゆっくり眺めた。
健二 「この棚も、ノイが?」
ノイ 「棚?」
健二 「並べ方とか。……作り付けじゃ、ないでしょう」
ノイ 「うん。私が作った」
健二 「作った」
ノイ 「正確には、作らせた。大工さんに、ああしろ、こうしろって」
健二 「想像できます」
ノイ 「何、それ」
健二 「いえ、褒めてます?」
ノイ 「壁の色も、私」
健二 「へえ」
ノイ 「最初はね、もっと派手な色にするつもりだった」
健二 「誰かに、止められましたか」
ノイ 「……」
ノイは少し笑った。
ノイ 「うん。止めた人がいた」
健二 「正解だったと思います」
ノイ 「今さら?」
健二 「今さら、言います」
ノイ 「じゃあ、ありがとうって言っとく。その人に」
言い方は軽かったはずなのに、最後のところで、少しだけ軽くなくなった。健二は何も言わなかった。まただ、とノイは思った。この人は、言葉の重さが変わる瞬間を、聞き逃さない。
ノイ 「店、五年って言ったでしょう」
健二 「はい」
ノイ 「最初から、一人じゃないよ」
健二 「……」
ノイ 「でも、続けてるのは、私」
健二 「はい」
ノイ 「それだけ」
健二 「それだけで、十分です」
健二はそう言った。慰めでも、感心でもない声だった。事実を確認するみたいな声。
ノイはレジに向かった。これ以上話すと、今日話すつもりのなかったことまで話してしまいそうだった。
レジで、健二は財布とカードの両方を出しかけて、迷った。
健二 「Can I pay by card?(カードで、払えますか)」
ノイ 「英語」
健二 「あ」
ノイ 「タイではね、カード、使えるよ」
健二 「……癖で」
ノイ 「分かった。緊張すると英語になる人」
健二 「緊張は、してません」
ノイ 「顔」
健二 「……少しだけ」
健二は、白を脱いで、青いシャツに着替えてきた。白いシャツは袋に入れた。青い方は、そのまま着て帰るのだという。
ノイ 「着て帰るんだ」
健二 「似合う、と言われたので」
ノイ 「私、言った?」
健二 「言いました」
ノイ 「……似合うよ」
タグを、ノイが後ろから切った。襟の下にハサミを入れる時、指の背が健二の首筋に触れた。今度は、健二は何も言わなかった。ノイも、何も言わなかった。その沈黙は、さっきの沈黙とは違った。許し合った、みたいな沈黙だった。
言ってはいけない、とノイは思った。こんなことで、そんな大げさな言葉を使う自分に、少し笑いそうになった。
ノイ 「健二さん」
健二 「はい」
ノイ 「マンゴー切る時さ、部屋、食堂みたいな匂いになるよ。一日」
健二 「困りますね」
ノイ 「困る。だから、本当は夜市で食べるのが一番」
健二 「夜市」
ノイ 「土曜の夜、通りの先で立つの。地元の人ばっかり」
健二 「……マンゴー目当てに夜市?」
ノイ 「マンゴー以外も、あるよ」
言ってから、ノイはしまったと思った。誘い方を、考えていなかった。
ノイ 「あのね、営業じゃないよ」
健二 「まだ何も」
ノイ 「先に言っとく。営業じゃ、ない」
健二 「はい」
ノイ 「来週の土曜。七時に、この通りの、信号のところ」
健二 「……いいんですか」
ノイ 「私も買い物あるし」
健二 「はい」
ノイ 「案内は、する。食堂で注文間違えて泣く前に」
健二 「泣いてません」
ノイ 「泣きそうだったって、自分で言った」
健二 「言いましたね」
健二は青いシャツの前を、自分で一度整えた。ノイが直したところを、崩さないようにするみたいな手つきだった。
健二 「来週、楽しみにしてます」
ノイ 「堅い」
健二 「楽しみに、してる」
ノイ 「うん。それでいい」
ノイ 「あ、健二さん」
健二 「はい」
ノイ 「来週、雨だったら」
健二 「雨だったら?」
ノイ 「夜市、泥だらけだよ」
健二 「じゃあ、傘を持ってきます」
ノイ 「壊れてない?」
健二 「新しく買います」
ノイ 「シャツ屋の次は、傘屋の客だ」
健二 「はい」
ノイ 「……待つのは、信号のところ。雨でも、そこ」
健二 「覚えました」
ノイ 「忘れたら?」
健二 「忘れません」
ノイ 「はいはい。信じとく」
健二が出ていく時、ドアのベルが昨日より軽く鳴った気がした。青いシャツの背中が、朝の通りの光の中で人混みに混ざっていく。似合っていた。本当に、似合っていた。
ノイはカウンターに戻り、引き出しを開けた。
昨日のハンカチが、白地に紺の刺繍で、静かに畳まれていた。その横に、今日の売上の伝票を置く。シャツ二枚。試着室での「待って」と、すぐに離れた手と、聞かなかった質問と。
女は男の、そういう小さいことを、ひとつずつ数えてしまう生き物だ。本人は、数えているつもりなど、ないのだけれど。
カーテンの向こうでは、もう誰も着替えていないのに。
ノイはしばらく、試着室の方を見ていた。
*
水曜日の昼、ノイは仕入れのついでに、ナーさんの食堂に寄った。
店に入って、ノイは少し驚いた。隅のテーブルに、健二が一人で座っていたからだった。
前には、大きな皿のガパオ。横に置かれた携帯には、タイ語の辞書アプリの画面が開いていた。健二はナーさんに何か言おうとして、ちょうど固まっているところだった。

ナーさん 「เอาน้ำไหม (水、いる?)」
健二 「え、あの」
ナーさん 「เผ็ดไปไหม (辛い?)」
健二が答える前に、ナーさんは入ってきたノイに気づいた。目配せをして、それから健二の顔を、面白そうに覗き込んだ。
ナーさん 「หนุ่มคนนี้ มาอีกแล้วนะ (このお兄さん、また来たのよ)」
ナーさん 「รอใครอยู่หรือเปล่า (誰か、待ってるんじゃないの?)」
健二が、困った顔でノイを見た。
健二 「……今、何て?」
ノイ 「内緒」
健二 「内緒?」
ノイ 「ナーさんの、秘密」
健二 「……僕の話、ですか」
ノイ 「さあ」
ノイは笑って、カウンターの椅子に座った。健二の隣だった。訳してあげてもよかった。でも、健二の困った顔と、ナーさんの楽しそうな顔を見ていたら、訳すのが少し惜しくなった。
近かった。健二が辞書アプリをスクロールする指と、水を飲む喉と、辛さで少し赤くなった耳。昼の食堂で見るには、少しだけ、見すぎだと思う距離だった。ノイは目を逸らさなかった。訳さない代わりに、見ていた。
ナーさん 「แฟนเหรอ (彼氏?)」
健二 「……」
ノイ 「訳さない」
健二 「僕の悪口じゃ、ないですよね」
ノイ 「さあね」
健二 「ノイ」
ノイ 「内緒」
健二は辞書アプリの画面を、少し恨めしそうに見た。それから、覚悟を決めたように、ナーさんに向かって言った。
健二 「น้ำ……ครับ (水、ください)」
ナーさんは大笑いして、水を持ってきて、ついでに健二の皿に目玉焼きを一個、勝手に乗せた。
ナーさん 「เก่งมาก (上手、上手)」
一人で、昼を食べに来る。辞書を引きながら、からかわれながら、それでもまた来る。
そういうところを、ノイはまた数えてしまった。
気をつけなければ、と思った。
*
その日の夕方、閉店の準備をしながら、ノイは試着室のカーテンを外して洗うことにした。
理由はなかった。カーテンは汚れていなかった。それでも、布を手に取ると、麻のシャツの匂いとは違う、店の匂いがした。ジャスミンと、洗剤と、少しの埃。
ミンが後ろから言った。
ミン 「ピー・ノイ」
ノイ 「何?」
ミン 「土曜、早めに上がるって言ってた?」
ノイ 「言ってない」
ミン 「言うと思った?」
ノイ 「ミン」
ミン 「だって、シャツのお客さん」
ノイ 「買い物、案内するだけ」
ミン 「ふーん」
ノイ 「……七時に上がらせて」
ミン 「はいはい」
ノイは店の予定表を開いて、土曜日の欄に、小さく書いた。
――19:00 信号のところ。
書いてから、少し見て、消さなかった。
消さない、というのが、今の自分の正直なところだった。待って、と言った手のこと。すぐに離れた手のこと。旦那、という言葉に固まった自分を、見ていて、何も聞かなかった人のこと。
選ぶのは、まだ先でいい。
でも、数えるのは、もう始まってしまっていた。
(第二章 終わり)
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