第三章 夜市

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第三章 夜市

 土曜日の夜七時。信号のところに、健二は十分前に立っていた。

 青いシャツだった。

 ノイは通りの向こうから、その姿を見つけた。シャツは店で買ったもの。言われるまでもなく、自分で選んで着てきた色。ノイは信号が青に変わるのを待ちながら、少しだけ、口元が緩むのを感じた。

ノイ 「早い」
健二 「待たせるよりは」
ノイ 「何分いた?」
健二 「十分」
ノイ 「十分も」
健二 「はい」
ノイ 「暑くなかった?」
健二 「暑かったです」
ノイ 「正直だね」

 健二のトートバッグから、新しい傘の柄が覗いていた。深い緑色で、骨の太い、折り畳みではない傘だった。

ノイ 「傘」
健二 「あ、はい」
ノイ 「買ったんだ」
健二 「はい。壊れてないやつを」
ノイ 「今日、雨降らないよ」
健二 「予報は?」
ノイ 「私が予報。今日は降らない」
健二 「……ノイ予報」
ノイ 「当たるよ」
健二 「じゃあ、荷物ですね」
ノイ 「うん。荷物持ちの、荷物」

 健二は笑って、その傘をバッグの奥の方に寄せた。笑いながら、二人は夜市の入口へ向かった。

 夜市の入口は、もう人で溢れていた。焼き鳥の煙、揚げ物の油の匂い、潰れたマンゴーと生の魚が混ざった、夜市特有の匂い。地面は昼間の雨の名残でところどころ光り、小さな水たまりを避けながら、人々は迷いなく歩いていた。

 ノイは健二の顔を見た。

 こういう場所に、外国人の男を連れてくると、だいたい分かる。匂いに顔をしかめる人。地面を見て歩く人。屋台の椅子に座るのを、一瞬ためらう人。健二の顔に、そのどれもなかった。

ノイ 「行くよ」
健二 「はい」
ノイ 「はぐれたら」
健二 「はぐれません」
ノイ 「自信」
健二 「ノイの後ろを、歩きますから」

 歩き出して、ノイはすぐに気づいた。

 歩幅が、合っていた。

 ノイは買い物に慣れた歩き方をする。速くもなく、遅くもない。屋台を一軒ずつ見て、良いものがあれば止まり、なければ流す。男の人と歩くと、大抵どこかでずれる。相手が速すぎて、ノイが小走りになるか、相手が店ごとに立ち止まって、ノイが待つことになるか。

 健二はずれなかった。

 ノイが止まれば、横で止まった。ノイが歩き出せば、同じ速さで歩き出した。肩が触れるほどの混雑の中で、二人の歩調だけが、ぴたりと重なっていた。

ノイ 「……健二さん」
健二 「はい」
ノイ 「歩くの、合わせてる?」
健二 「合わせてません」
ノイ 「じゃあ何」
健二 「ノイの歩き方、ですかね」
ノイ 「私の?」
健二 「はい。……僕も、こういう歩き方です」

 嘘ではなさそうだった。試しに速くしてみた。健二も速くなった。遅くしてみた。遅くなった。合わせているのではなく、合ってしまうのだ、とノイは思った。

 そういうことから、人は始まってしまうのかもしれない。

 最初の屋台で、ノイは串焼きを二本ずつ買った。豚と、鶏と、イカ。

ノイ 「辛いの、大丈夫?」
健二 「好きです」
ノイ 「ほんとに?」
健二 「この前、泣きそうにはなりました」
ノイ 「正直だね、二回目」
健二 「はい」

 健二は串を一口食べて、水を飲まなかった。二口目も、飲まなかった。三口目で、さすがに目が少し潤んだ。

ノイ 「水」
健二 「大丈夫です」
ノイ 「水」
健二 「……いただきます」

ノイ 「あはは」
健二 「笑いますね」
ノイ 「泣きそう、って顔」
健二 「泣いては」
ノイ 「分かってる。泣いてない」

 屋台のおじさんが、健二の顔を見て笑いながら言った。

屋台のおじさん 「อร่อยไหม (美味いか)」
健二 「อร่อยมาก (とても美味しいです)」

 健二のタイ語は、発音がまだ固かった。でも、おじさんは大袈裟なくらい喜んで、串をもう一本、袋にこっそり入れた。

ノイ 「今の、誰に教わったの」
健二 「会社の、タイ人の部下に」
ノイ 「ありがとう、は」
健二 「ขอบคุณครับ (ありがとうございます)」

ノイ 「……惜しい」
健二 「何がですか」
ノイ 「ครับ、のところ。もっと短く。ほら、言ってみて」
健二 「コープ、クン、カップ」
ノイ 「違う。私の口、見て」

 人混みの中で、二人は立ち止まった。ノイの口元に、健二の目が落ちた。

ノイ 「コープクン、クラッ」
健二 「コープクン、クラッ」
ノイ 「もう一回」
健二 「コープクン、クラッㇷ゚」
ノイ 「うん。それ」

 言えたはずなのに、健二の目はまだノイの口にあった。ノイも、それに気づいていた。気づいていて、すぐには逸らさなかった。

ノイ 「……はい、次行くよ」
健二 「はい」
ノイ 「目」
健二 「すみません」
ノイ 「謝るなって」
健二 「じゃあ」
ノイ 「次」

 二人とも少し笑って、歩き出した。歩調は、またすぐに合った。

 市場の中央の広場で、団体客の列が横切った。一瞬、人の壁ができた。

 ノイが壁の向こう側に出た時、横に健二がいなかった。

ノイ 「あ」

 声が、出かけて止まった。名前を呼ぶほど、大げさなことではない。そう思ったのに、胸が少しだけ騒いだ。振り返って、人混みを探した。青いシャツ。あの色は、目立つはずだった。

健二 「ここです」

 声は、すぐ後ろからした。

 健二は広場の柱の横に立っていた。人混みを無理に割って追いかけるのではなく、流れの切れ目で待っていたのだった。

ノイ 「……いた」
健二 「いました」
ノイ 「探した」
健二 「僕も、探しました」
ノイ 「大声、出さないんだ」
健二 「出したら、ノイが恥ずかしいでしょう」

 ノイは少し笑って、それから、自分の胸がまだ騒いでいることに気づいた。たった十秒、姿が見えなかっただけなのに。

ノイ 「はい、行くよ」
健二 「はい」
ノイ 「今度は」
健二 「はい」
ノイ 「はぐれるなって意味で」
健二 「分かってます」

 歩き出すと、歩調はまた合った。今度はさっきより、半歩だけ近かった。肩と肩の距離が、人混みのせいなのか、そうでないのか、ノイには分からなかった。分からないままでいい、とその時は思った。

 ノイの買い物は、店の仕入れも兼ねていた。布小物を出す小さな店で値段を聞き、籠を売る店では編み目を確かめ、気に入ったものだけを買った。健二は、ノイが買った袋を、自然に受け取った。

健二 「持ちます」
ノイ 「重くないよ」
健二 「持ちます」
ノイ 「はいはい」

 三軒目を過ぎる頃には、健二の両手には袋が三つ下がっていた。駐在員の男が、夜市で女の買い物袋を持って歩いている。その姿を、近所の顔見知りの店主が何人か、にやにやしながら見ていた。

 果物屋の前で、おばさんが声をかけた。

果物屋のおばさん น้อย วันนี้มีคนมาด้วยเหรอ (ノーイ、今日は連れがいるのね)
ノイ ลูกค้าเฉยๆ (お客さんだよ)
果物屋のおばさん 「แฟนเหรอ (彼氏?)」
ノイ 「ไม่ใช่ (違うって)」
果物屋のおばさん แหม หน้าแดงเชียวนะ (あら、顔が赤いわよ)
ノイ ร้อนเฉยๆ (暑いだけ)

 ノイは早口のタイ語で切り返した。健二は分からないはずだった。なのに、帰り際に果物屋のおばさんが健二に向かって、ゆっくりと英語で言った。

果物屋のおばさん 「You take care of her, okay?(彼女をよろしくね)」
健二 「Yes. I will try(はい。努力します)」

 健二は真面目に答えた。

ノイ 「何、今の」
健二 「何って」
ノイ 「あのおばさん、何て言ったか、分かってた?」
健二 「だいたい」
ノイ 「だいたいって」
健二 「雰囲気で」
ノイ 「雰囲気で返事しないで」
健二 「……間違ってましたか」
ノイ 「間違って、ないから困るの」
健二 「困る?」

 ノイは答えずに歩き出した。歩調が、いつもより少しだけ速くなっていた。今度は健二が、小走り気味に合わせた。

 ドリアンを積んだ屋台の前を通った時、今度は健二の足の方が止まった。

 山のように積まれた、棘だらけの実。独特の匂いが、歩道いっぱいに広がっていた。健二は匂いの方を向いたまま、少しだけ身を引いた。でも、顔はしかめていなかった。ただ、戸惑っていた。

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ノイ 「ダメなやつ?」
健二 「食べたことが、なくて」
ノイ 「匂いは?」
健二 「……独特、ですね」
ノイ 「正直だね、三回目」
健二 「数えてますね...」

 屋台のおじさんが、二人のやりとりを見て笑い、手際よく一個を割って、黄色い身をパックに詰めた。

ドリアン屋のおじさん 「ลองก่อน ไม่ชอบไม่ต้องจ่าย (まず食べてみな。気に入らなきゃ、金はいらない)」

ノイ 「試食だって」
健二 「食べて、気に入らなかったら」
ノイ 「お金、いらないって」
健二 「それは、困ります」
ノイ 「何で」
健二 「食べたら、払います」
ノイ 「気に入らなくても?」
健二 「口に入れたものは」

 ノイは笑った。この人は、試食ひとつでも、ただにはしないのだ。

 健二はパックを受け取り、一切れを割り箸で慎重に掴んだ。少しだけ、呼吸を止めるのが分かった。

 口に入れた。

 ノイは、その口元を見ていた。初めてのものを口に入れる男を、こんなに近くで見る機会は、そう多くない。健二の指には、黄色い身が少しついていた。

ノイ 「指」
健二 「あ」
ノイ 「ついてる」
健二 「……」

 健二は指を舐めた。ノイの目の前で、隠しもせずに。ただそれだけのことだったのに、ノイは少しだけ、視線の置き場に困った。

 健二の目が、少し見開かれた。

ノイ 「どう」
健二 「……甘い」
ノイ 「それだけ?」
健二 「甘くて、濃くて。……チーズみたいで」
ノイ 「チーズ」
健二 「悪い意味じゃなく。美味しい、です」
ドリアン屋のおじさん 「อร่อยไหม (美味いか)」
健二 「อร่อยมาก (とても美味しいです)」

 おじさんは満足そうに頷いて、もう一切れ、パックに足した。

ノイ 「値切らないの」
健二 「食べ物は、値切りません」
ノイ 「じゃあ、これは」
健二 「言い値で、買います」

 健二は文句ひとつなく払って、パックを袋に提げた。

ノイ 「その匂い、部屋まで持って帰るんだ」
健二 「……甘い部屋が、増えますね」

 布を売る屋台の前で、ノイの足が止まった。

 店の仕入れに使えそうな、手織りの布が積まれていた。ノイは一枚手に取り、光に透かして織りを見た。その横顔は、さっきまでの夜市を楽しむ女の顔ではなかった。商売人の顔だった。

ノイ 「อันนี้ เท่าไหร่ (これ、いくら)」
布屋の店主 「ห้าร้อย (五百)」
ノイ 「แพงไป ลดหน่อย (高い。負けて)」

 値段の交渉は、タイ語で矢継ぎ早に進んだ。健二は横で、黙って見ていた。四百八十、四百五、と数字だけが時々聞き取れた。四百になったところで、店主が笑って手を打った。

健二 「決まった?」
ノイ 「うん。四百」
健二 「五百から」
ノイ 「いつも、そう」
健二 「すごいですね」
ノイ 「商売だから」

 ノイは布を三枚買った。健二が袋を受け取った。

健二 「でも、さっきの串は」
ノイ 「何?」
健二 「値切ってませんでした」
ノイ 「食べ物は、値切らない」
健二 「布は?」
ノイ 「布は、値切るのが礼儀みたいなもの。あの人も、最初から四百で売るつもりだった」
健二 「なるほど」
ノイ 「健二さん、さっきのスカーフ屋で」
健二 「はい」
ノイ 「言い値で買おうとしてたでしょう」
健二 「……バレましたか」
ノイ 「バレた。あれは半額から」
健二 「勉強します」
ノイ 「はい、勉強して」

 花売りの前を通った時、健二の足が止まった。

 ジャスミンの花輪が、氷の上に並んでいた。健二が初めて店に来た日、ノイの店のカウンターの花器に浮かんでいたのと同じ、白い花だった。

健二 「これ、ください」
ノイ 「健二さん?」
健二 「One, please(ひとつ、ください)」

 健二は花輪をひとつ買った。それから、どうすればいいのか分からない、という顔でノイを見た。

健二 「……どうぞ」
ノイ 「私に?」
健二 「はい」
ノイ 「何で」
健二 「店で、いい匂いだと言ったので」
ノイ 「それ、私の店の花でしょう」
健二 「はい。だから」

 言い方が下手だった。下手すぎて、ノイは笑ってしまった。笑いながら、手を出した。健二は花輪を、落とさないように両手でそっと置いた。指が、ほんの少しだけ触れた。

ノイ 「ありがとう」
健二 「いえ」
ノイ 「花輪はね、本当はお寺に供えるの」
健二 「あ」
ノイ 「でも、もらっとく」
健二 「すみません」
ノイ 「謝るなって。……いい匂い」

 ノイは花輪をバッグの持ち手にかけた。歩くたびに、ジャスミンの甘い匂いが、二人の間を揺れた。

 食事の屋台は、夜市の一番奥だった。小さなプラスチックの椅子、脚の短いテーブル。床は油と水で滑りやすくなっていた。ノイは自分の店で出すわけでもないのに、つい健二の座り方を見た。

 健二は椅子を引いて、何のためらいもなく座った。青いシャツの裾が椅子に触れるのも、気にしなかった。

健二 「ここ、美味しいの?」
ノイ 「私の、一番」
健二 「じゃあ、お任せします」
ノイ 「全部?」
健二 「全部」
ノイ 「辛いの来るよ」
健二 「来ますね」
ノイ 「水、横に置いとく」
健二 「ありがとうございます」

 ノイが頼んだのは、トムヤムと、空芯菜の炒め物と、魚のすり身の揚げ物だった。運ばれてきた時、健二は箸ではなく、スプーンとフォークを手に取った。タイ式に、フォークで寄せてスプーンですくう食べ方を、どこかで覚えたらしい。

ノイ 「上手いね」
健二 「練習しました」
ノイ 「誰に」
健二 「食堂のおばさんに、笑われながら」
ノイ 「ふーん」
健二 「笑われるの、大事です。覚えますから」
ノイ 「じゃあ、私も遠慮なく笑う」
健二 「はい。お願いします」

 トムヤムの辛さに、健二の額に汗が浮かんだ。それでも彼は、美味い、と言った。取り繕った声ではなかった。辛い、でも美味い、と二回言った。

ノイ 「日本でも、こういうとこ行った? お祭りとか」
健二 「行きました。若い頃は」
ノイ 「若い頃」
健二 「……結婚してからは、近所の祭りくらいですかね」
ノイ 「奥さんと」
健二 「はい」

 健二はスプーンを置いた。

健二 「祭りも、だんだん、行事になりました」
ノイ 「行事」
健二 「行くのが、役割みたいな。楽しいかどうかは、別で」

 屋台の喧騒が、二人のテーブルの周りだけ遠くなった気がした。

ノイ 「今は」
健二 「今?」
ノイ 「今日の健二さんは、行事の顔じゃないよ」
健二 「……そうですか」
ノイ 「うん。楽しそう」

 健二は少し驚いた顔をして、それから、本当に嬉しそうに笑った。

健二 「楽しいです」
ノイ 「はい」
健二 「ノイと歩くのが」

 言ってから、健二は少し慌てた。

健二 「あ、いえ、夜市が」
ノイ 「どっち」
健二 「両方、です」
ノイ 「はいはい」

 ノイは空芯菜を自分の皿に取った。顔が熱いのは、トムヤムのせいだけではなかった。

 食事が終わる頃、健二が言った。

健二 「ノイは、いつも一人で?」
ノイ 「何が」
健二 「夜ご飯。こういうところに」
ノイ 「うん。だいたい一人」
健二 「寂しく、ないですか」
ノイ 「慣れるよ」
健二 「慣れる」
ノイ 「健二さんこそ。コンドで、一人でしょう」
健二 「はい」
ノイ 「何食べてるの」
健二 「……コンビニの、何か」
ノイ 「あー」
健二 「あー、って」
ノイ 「駐在員の、典型的なやつ」
健二 「否定できません」
ノイ 「じゃあ今日は、良かったね」
健二 「はい」
ノイ 「典型じゃないご飯で」
健二 「はい。本当に」

 健二は、テーブルの上の空になった皿を見た。

健二 「一人で食べるの、嫌いじゃないんです」
ノイ 「うん」
健二 「でも、今日みたいな方が」
ノイ 「みたいな方?」
健二 「……誰かと、辛いと言いながら食べる方が」

 ノイはスプーンを置いた。

ノイ 「じゃあ、また来ればいい」
健二 「いいんですか」
ノイ 「夜市は、毎週ある」
健二 「はい」
ノイ 「私も、だいたい、いる」
健二 「はい」

 言ってから、二人とも少し照れたように黙った。屋台のおばさんが、空いた皿を大きな音を立てて下げていった。その音が、ちょうどよかった。

 帰り道、人混みはさらに増えていた。入口の方へ向かう流れと、出ていく流れがぶつかって、ところどころで人が滞留していた。

 前から来たバイクが、歩行者の間を縫って進んできた。

健二 「ノイ、右」

 健二の声がした。同時に、彼の身体が半歩前に出て、ノイとバイクの間に入った。手は、出なかった。肩と背中で、通りを塞ぐように立っただけだった。

 バイクが通り過ぎた。

ノイ 「……ありがとう」
健二 「大丈夫ですか」
ノイ 「うん」

 ノイは、健二の青いシャツの背中を見た。

 試着室のことを、この人は覚えているのだ、と思った。声をかける。手の前に、声をかける。その約束を、こんな人混みの中でも、この人は守った。守ろうとした、ではなく、もう自然にそうなっていた。

ノイ 「健二さん」
健二 「はい」
ノイ 「手、出さなかったね」
健二 「……出そうには、なりました」
ノイ 「正直」
健二 「はい。でも」
ノイ 「うん」
健二 「声の方が、先でした」

 ノイは笑った。笑いながら、胸のどこかが温かくなった。

ノイ 「合格」
健二 「何のですか」
ノイ 「内緒」

 マンゴー屋の前を通った時、ノイは思い出して立ち止まった。

ノイ 「ほら、マンゴー。ナーさんのマンゴー、部屋で切った?」
健二 「切りました」
ノイ 「どうだった」
健二 「甘かったです。一日、部屋が甘かったです」
ノイ 「言ったでしょう」
健二 「言いましたね」

 ノイはスティッキーライスとマンゴーのセットを買った。健二は、部屋で切る練習だと言って、生のマンゴーを二つ買った。屋台の横のベンチに、二人で座って分けた。健二がスプーンで切ったマンゴーは、形が少し崩れていた。

ノイ 「下手」
健二 「難しいんです」
ノイ 「ほら」

 ノイは自分のスプーンで、きれいに切れた一切れを健二の皿に移した。何でもない仕草のはずだった。なのに健二は、その一切れをしばらく見てから食べた。

健二 「……ありがとうございます」
ノイ 「マンゴーに、その顔」
健二 「昔から」
ノイ 「何」
健二 「分けてもらうの、慣れてなくて」
ノイ 「奥さんと、分けなかったの」
健二 「役割分担でしたから」

 冗談みたいに言った。でも、二人とも笑わなかった。

 夜市の明かりが、健二の横顔を照らしていた。四十六歳の男の、少し疲れた横顔。十五年、役割で生きてきた人の顔。

 ノイは自分の皿のマンゴーを、もう一切れ、健二の皿に移した。

ノイ 「じゃあ、練習して」
健二 「練習」
ノイ 「分けてもらう練習」
健二 「……はい」

 その時、ノイの電話が鳴った。

 チェンマイの母からだった。ノイはタイ語で短く話した。来月の仕入れの日程、実家に泊まるかどうか、布の在庫のこと。話しながら、ノイは少しだけ、健二の方を見た。

 電話を切ると、健二が言った。

健二 「チェンマイ」
ノイ 「うん。来月、仕入れに行く」
健二 「一人で」
ノイ 「いつもはね」

 言ってから、ノイは自分の言葉の続きが、もう口の中にあることに気づいた。

ノイ 「ミンが、来月は休み取るって言ってて」
健二 「はい」
ノイ 「荷物、多いんだよね。布って、重くて」
健二 「でしょうね」

 健二は、それ以上言わなかった。誘われ待ちの顔でもなかった。ただ、聞いていた。

ノイ 「……健二さん、土日って」
健二 「空いてます」
ノイ 「聞いてない」
健二 「先に、答えました」
ノイ 「会社は」
健二 「土日は、休みです」
ノイ 「チェンマイ、行ったことある?」
健二 「ないです」
ノイ 「暑いよ。バンコクよりは涼しいけど」
健二 「はい」
ノイ 「荷物持ち、募集するかもしれない」
健二 「……応募します」
ノイ 「即答!」
健二 「はい」

 ノイは笑った。笑って、誤魔化したつもりだった。

 でも帰り道、二人の歩調は最後まで合っていた。そのことが、募集、という言葉よりずっと正直に、ノイの気持ちを物語っていた。

 その先で、二人はBTSの駅の前を通った。人の波を避けながら、健二が何気なく言った。

健二 「“来る”は、マー、でしたっけ」
ノイ 「マー?」
健二 「予習です。どうせ、また教わるので」
ノイ 「予習」
健二 「มา (マー)。……来る」
ノイ 「うん。でもね、健二さん」

 ノイは足を止めた。教える側の顔になるのを、自分でも感じた。

ノイ 「マーには、五つある」
健二 「五つ」
ノイ 「มา (マー) は、来る。หมา (マー) は、犬。ม้า (マー) は、馬」
健二 「全部、マーじゃないですか」
ノイ 「耳はね。声の高さが違う。ほら」

 ノイは一歩、近づいた。市場の帰りの人波の中で、教える声は小さくなければ届かなかった。健二の耳の近くで、ゆっくりと言った。

ノイ 「マー」
健二 「……マー」
ノイ 「今のは、犬」
健二 「耳元だと、余計に分かりません」
ノイ 「じゃあ、距離のせいにする?」
健二 「……しません」
ノイ 「じゃあ、“馬”」
健二 「マー」
ノイ 「今度は、小さい馬」
健二 「小さい馬」

 健二は真剣な顔で、自分の口の形を確認していた。その真剣さがおかしくて、ノイは笑った。

健二 「笑いますね」
ノイ 「笑う。だって健二さん、さっきからずっと」
健二 「はい」
ノイ 「“誰か来る”って、言ってる。それだけ、正解」
健二 「偶然、ですか」
ノイ 「偶然。でも、悪くない」

 駅の階段の下で、二人は笑った。教える、というのは、思っていたより楽しかった。

 信号のところまで来て、健二が少し言いにくそうに言った。

健二 「あの、チェンマイの件」
ノイ 「うん」
健二 「決まったら、連絡を。……店の、電話で、いいですか」
ノイ 「LINEでいいよ」
健二 「いいんですか」
ノイ 「仕事の連絡だから」
健二 「仕事?」
ノイ 「うん。ほら、携帯」

 健二は携帯を取り出した。QRコードを読み取る手が、少しだけ慌てていた。登録された名前を見て、ノイは言った。

ノイ 「タカギ ケンジ」
健二 「はい」
ノイ 「ローマ字」
健二 「はい」
ノイ 「堅い」
健二 「変えますか」
ノイ 「いい。そのままで、健二さんらしい」

 信号のところで別れた。

健二 「今日は、ありがとうございました」
ノイ 「堅い」
健二 「ありがとう」
ノイ 「うん。私も」

 健二は少し驚いた顔をした。

ノイ 「私も、楽しかった」

 それだけ言って、ノイは先に歩き出した。振り返らなかった。振り返ったら、もう一言、何か余計なことを言ってしまいそうだったから。

 *

 部屋に帰って、シャワーを浴びた。バッグの持ち手にかけたジャスミンの花輪は、少ししおれ始めていたけれど、匂いはまだ濃かった。ノイはそれを、ベッドの横の小さい皿に置いた。

 携帯が震えた。

 ――タカギ ケンジ:今日はありがとうございました。マンゴー、部屋に持ち帰った分も切りました。

 写真が添付されていた。下手に切られたマンゴーが、皿に並んでいた。

 ――タカギ ケンジ:下手です。

 ノイは笑った。ベッドに腰かけて、返事を打った。

 ――ノイ:ほんとに下手
 ――ノイ:練習して
 ――タカギ ケンジ:はい。練習します。
 ――タカギ ケンジ:ขอบคุณครับ

 少し間があって、もう一行来た。

 ――タカギ ケンジ:発音、今日の採点は?

 ――ノイ:70点
 ――タカギ ケンジ:厳しい。
 ――ノイ:来週、また教える

 送信してから、ノイは携帯を伏せた。

 来週、また教える。

 自分で打った文字が、思ったより楽しそうだった。花輪の匂いが、枕の近くで甘く漂っていた。

 一人で食べる夜に、慣れていたはずだった。

 その慣れが、ほんの少しだけ、崩れ始めていた。

(第三章  終わり)

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