
窒息する「空気」と、心を縛る「徳」―日タイ・見えない檻の中で私たちが呼吸する方法
前回の記事では、日本のコンビニで「待つ」という行為に宿る贅沢さについてお話ししました。少しは、日々の忙しさで乾いた心に潤いを感じていただけたでしょうか。とはいえ、現実はそう簡単にバラ色には染まりません。人生の難しさは、場所を変えただけで解決するほど単純ではないのが実情です。
「タイへ移住すれば、日本の息苦しさから解放され、輝かしい余生が待っている」――そんな期待を抱く方も少なくありません。しかし、あえて厳しいことをお伝えするなら、その幻想は一度手放していただく必要があるかもしれません。
今日は、私たちの自由を静かに、かつ確実に奪い去る「見えない呪縛」の正体について深く掘り下げてみたいと思います。日本を締め付ける「空気」と、タイを縛り上げる「徳」。その意外な共通点と、私たちがどう向き合うべきかについてお話ししましょう。
「正しさ」という名の透明なギロチン
「ああ、あんなこと言わなければよかった……」
夜道、一人で「脳内反省会」を始めては、自己嫌悪の深淵に沈んでいく。そんな経験は、誰しも一度はあるのではないでしょうか。
日本という国で生きることは、喉元に「空気」という名の不可視の酸素濃度計を突きつけられ続けることに似ています。誰が決めたわけでもない「その場の正解」を瞬時に察知し、波風を立てずに周囲へ溶け込む。
もしその「同調圧力」という名のダンスを踊り損ねれば、待っているのは冷ややかな視線による「社会的窒息」です。この暗黙のルールは、どんな法律よりも厳格に、私たちの精神を縛り上げています。
以前、日本のオフィスで見かけた光景が忘れられません。急ぎの仕事があるわけでもないのに、「周囲がまだ残っているから」という理由だけでデスクに張り付く人々。「お先に失礼します」という、わずか数文字の言葉が鉛のように重く、口に出せない。「自分」を消し去り、「みんな」に同化すること。それが美徳とされる文化の中で、私たちは自分が何者であるかを見失ってしまうのです。
タイの「徳」という名の精神的重税
一方、微笑みの国・タイはどうでしょうか。
彼らは「マイペンライ(気にしない)」を合言葉に、日本の「空気を読む」という繊細すぎる文化とは無縁に見えます。しかし、そんな彼らにも逃れられない「聖なる鎖」が存在します。それが「タムブン(徳を積む)」という宗教的観念です。
善行を積めば、来世や現世で報われる。一見すれば慈悲深い教えですが、これが社会の根底に組み込まれると、残酷な側面が顔を覗かせます。
- 格差の肯定: 「今が苦しいのは、前世で徳を積まなかった自業自得だ」という無言の諦念。
- 同調の圧力: 生活費を削ってでも寄付をしなければならないという、コミュニティ内での見えない強制力。
- 自己犠牲の美学: 「善人でなければならない」という強迫観念。
以前、私の友人が、生活が困窮しているにもかかわらず、寺院に多額の布施をしているのを目にしました。「まずは自分の生活を大切にすべきだ」と伝えた私に、彼は虚ろな表情でこう言ったのです。「こうしないと、心が落ち着かないんだ」と。
日本の「空気」が横並びの監視社会であるならば、タイの「徳」は神仏との契約を介した自己束縛。形は違えど、どちらも人間の本質的な自由を制限する「檻」であることに変わりはありません。
結局、人生のハンドルを誰に握らせているのか
日本の同調圧力は「横」からの視線。
タイの宗教的価値観は「上」からの支配。
性質は異なりますが、本質は同じです。どちらも「自分自身の外側にある基準」に、無理やり自分を適合させようとしているのです。他人の顔色を窺って息を潜めるのも、見えない運命に怯えて徳を買い支えるのも、結局のところ、人生の主導権を誰かに明け渡している状態に他なりません。
どこに身を置こうとも、私たちは「自分」を不在にしたまま、何かの奴隷として生きる道を選んでしまいがちです。それは、等しく「生きづらい」場所を作り上げてしまう原因となります。
濁世を少しだけ軽やかに生きる術
日本にいても、タイにいても、私たちは「見えないルール」という名の排気ガスの中で生きていくしかありません。
しかし、そのルールが「自分を蝕んでいる」と自覚することが、唯一の脱出口になります。空気を読まない自分を「個性」として愛し、徳を積めない自分を「人間らしさ」として許してあげること。
もし今、あなたが胸の奥に得体の知れない息苦しさを感じているなら、それはあなたの魂が「本当の自分」を取り戻そうと鼓動している証拠です。
次回は、そんながんじがらめのルールの中で、私自身がタイの安酒と少しのユーモアを頼りに、どうやって心を解き放ってきたのか。その泥臭くも愛おしいプロセスをお話ししたいと思います。
少しずつ、肩の荷を下ろしていきましょう。どうせ最後は、皆同じ場所に帰るのですから。
この記事があなたの心に少しでも触れたなら、ぜひコメントを残していただけると嬉しいです。皆様との交流を、心より楽しみにしています。
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