

錆びついた「正論」を脱ぎ捨てて。バンコクのスコールが教えてくれた、自分を許すための生存戦略
朝、目が覚めた瞬間に心臓が嫌なビートを刻む。時計の針が予定をわずか数分過ぎているのを見ただけで、冷や汗が噴き出し、まるで取り返しのつかない罪を犯したかのような絶望感に襲われる――。
皆さんも、そんな経験はありませんか?
せっかくの休日でさえ、脳内に住み着いた「分刻みの看守」が、目に見えないタイムカードを冷酷に押し続けているような感覚。前回は「空気を読む」日本人と「徳を積む」タイ人の、鮮やかすぎるほどのコントラストについてお話ししました。
今回はもう少し深く、私の心の奥底に踏み込んでみようと思います。これは、タイという愛すべきカオスの中で、私がいかにして「心の毒抜き」を強制執行されたかという、無様で、けれど愛おしい再生の記録です。
亜熱帯の熱気に溶けない、重すぎる「日本仕様の甲冑」
タイに渡ったばかりの頃の私は、まさに「模範的な日本人」という標本のような男でした。
- 待ち合わせの5分前到着は、信仰に近い絶対的な義務。
- 仕事は緻密な計画通りに進んでこそ、プロの芸術。
- わずかなミスでも、胃を痛めながら地面にめり込むほど謝罪する。
そんな「正論」という名の、分厚く錆びついた甲冑を全身に纏い、35度の熱気に包まれたバンコクに降り立ったのです。しかし、この国の現実は、私の甲冑の隙間に容赦なく泥水を流し込んできました。
渋滞でバスは永遠に来ない。業者は平気で約束を反故にする。それらすべてが「マイペンライ(気にしないで)」の一言で片付けられたとき、私の血管はどれほど切れそうになったことでしょう。「なぜ、もっと『ちゃんと』できないんだ!」と、独りよがりの正義を振りかざしては、勝手に血圧を上げて消耗していたのです。
完璧主義が泥水に沈んだ、あの午後の情景
忘れもしない、バケツをひっくり返したような激しいスコールが、バンコクの街を文字通り飲み込んだ午後のことです。
大事な打ち合わせに向かう途中、私の安物のサンダルが派手に壊れました。泥水に足を突っ込み、ずぶ濡れになりながら必死に歩く姿は、滑稽を通り越して惨めそのもの。結局、約束の時間には救いようがないほど遅刻してしまいました。
「すべてが終わった……」と絶望し、半べそをかきながらオフィスに飛び込んだ私を待っていたのは、怒号でも冷笑でもありませんでした。ポテトチップスをかじりながら、ゲラゲラと談笑しているスタッフたちの、あまりにも穏やかな日常だったのです。
「おー、来たね。外、ひどい雨だったでしょう? とりあえずコーヒーでも飲んで落ち着きなよ」
誰も私を責めない。それどころか、私が遅れたという事実さえ、激しい雨音の中に心地よく消えていました。その瞬間、私の中でピンと張り詰めていた何かが、静かに、けれど確かに弾けたのです。
「ああ、私は一人で、自分を縛り上げる縄を編んでいたんだな」と。
「脱洗脳」とは、しなやかに諦めること
日本で叩き込まれる「常識」は、確かに高度な文明を維持するための精密な歯車です。けれど、その歯車がいつの間にか自分の心を削り取る「呪い」になってはいないでしょうか。
タイでの生活は、私にとって「こうあるべき」という執着を一つずつドブに捨てていく作業でした。
- 「完璧」を諦める:6割できていて、最後にみんなで笑っていれば合格点。
- 「コントロール」を諦める:天気も他人の機嫌も、自分の力ではどうにもならない。無駄な抵抗はやめ、流れに身を任せる。
- 「謝罪」の代わりに「感謝」を増やす:這いつくばって「すみません」と繰り返すより、笑顔で「コープクン(ありがとう)」と言うほうが、世界はよほど円滑に、そして温かく回ります。
これを私は「心の毒抜き」と呼んでいます。ルールを捨てるのは怠慢ではありません。自分を許し、同時に他人の不完全さをも愛でるための、高度な生存戦略なのです。
正しさに殺される前に、少しだけ「適当」の風を
タイの友人たちは、よくこう嘯(うそぶ)きます。「明日できることを、今日やる必要なんてない。今日は今日を楽しもうよ」と。
もちろん、真面目な皆さんが、明日からいきなりタイ人のように生きるのは難しいかもしれません。けれど、ほんの少しだけ「常識のボリューム」を絞ってみるだけで、この息苦しい世の中の景色は劇的に変わります。
「ちゃんとしなきゃ」と自分にムチを打ちたくなったとき、心の中でこう呟いてみてください。
「ここはタイだ。マイペンライ。死ぬわけじゃあるまいし」
それだけで、ガチガチに固まった肩の力が、ふっと抜けるはずです。
さて、全6回にわたるこの連載も、次回がいよいよ最終回です。日本の「窮屈な正しさ」とタイの「しなやかな寛容さ」。その狭間で見つけた、「正しさに殺されずに、しぶとく、かつ軽やかに生き抜くための極意」を最後にお伝えしようと思います。
明日が、あなたにとって少しだけ、呼吸のしやすい一日になりますように。
この記事があなたの心に響いたら、ぜひ何かコメントをよろしくお願いします。
![]()












