立憲革命までのタイムライン(流れ)
- 1929年:世界恐慌の影響がタイ(当時のシャム)にも及び、主要輸出品である米の価格が下落し、政府の税収が減少。
- ラーマ6世の時代から続く財政問題:政府は公務員の給料削減やインフラ整備予算の縮小などの緊縮財政を導入。同時に、赤字予算編成と中下級公務員の大量解雇を実施する一方で、上級貴族や特権階級は守られる。所得税の導入により中間層の生活が苦しくなる。
- 1930年代初頭:シャム国内外で絶対王政の終焉が相次ぐ(中国の清王朝終焉、ロシア革命、ドイツ帝国・ハンガリー帝国の崩壊など)。シャム国内でも、西洋式教育を受けた上級貴族や王族、特にラーマ7世自身もイギリス留学経験があり、政治的知識が貴族や王族の一部に集中している現状、行政の遅れ、非効率性、不公平な官僚制度への不満が高まる。一般庶民の間ではナショナリズムや民主主義といった新しい思想が広がり始める。
- 1932年以前:憲法導入を求める声が高まるが、王や保守的な上層階級からは真剣な反応が得られない。ラーマ7世自身も憲法について検討はしていたものの、用意された草案は上院議員が全て任命制で選挙が一切なく、また「国民はまだ準備ができていない」との理由で公布が見送られる。
- 1932年6月24日未明:人民党(カナラット)が行動を開始。一部の王族を拘束し、軍の司令部、郵便局、ラジオ局、重要な橋などの主要施設を制圧。
- 1932年6月24日夜明け:ラジオ放送で人民党の宣言が読み上げられる。「国家の最高権力は国民に属し、国王ではなく国民のものとなる」と宣言され、立憲君主制と国民の権利を保障する新しい政治体制の幕開けを告げる。当時のラーマ7世はフアヒンのワットプラヤにある王宮に滞在中だった。
- 1932年6月25日:ラーマ7世、人民党の要請により特別列車でバンコクへ戻る。国王はクーデターに対して賛成も反対もせず、提出された新しい憲法案を読んでから判断すると述べる。
- 1932年6月26日:ラーマ7世、人民党の代表たちから正式な承認を得て、クーデターに関わった人々への恩赦に署名する。
- 1932年6月27日:ラーマ7世、暫定憲法「ラッタマヌーン・チャワーカオ」を公布し、立憲君主制への移行が正式に果たされる。
- 1932年6月28日:プラヤー・パホンポンパユハセーナーが人民委員会の議長に任命される(選挙制度が未整備だったため、議員は全て人民党によって任命)。
- 1932年12月10日:ラーマ7世、タイ初の恒久憲法「ラタマヌーン・チャバータン」を公布。この日は現在も「憲法記念日」(ワン・ラタマヌーン)として休日となっている。
- 1933年10月:王族や貴族など民主化に反対する保守派が、権力を取り戻そうと「ボーウォーラデートの反乱」と呼ばれる武装蜂起を起こす。政府軍と反乱軍の間で武力衝突が発生し、内戦状態となる。この反乱は当時の国王ラーマ7世と政権の関係を悪化させる。政府は国王が反乱に寛容であると疑い、国王も民主主義への信頼を失う。
- 1934年:ラーマ7世、反乱のわずか3ヶ月後にタイを出国し、後に王位を放棄する。これにより、多くの王族がタイを離れ、政治の中心は軍と人民党による体制へと移行する。
- 1933年11月1日~15日:タイ初の選挙が実施される。これは「観察選挙」と呼ばれる二段階選挙で、まず各地域で宿題代表を選び、その代表たちが国会議員を選出する方式だった。有権者数は約427万人、実際の投票者数は約177万人(投票率約41.45%)。タイは世界で4番目に女性の選挙権を認めた国の一つとなる。
- 登場人物
- ラーマ7世 (プラチャーティポック国王):1932年当時のシャム国王。イギリスに留学経験があり、西洋式教育を受けていた。憲法導入について検討はしていたものの、国民はまだ準備ができていないとの理由で公布を見送っていた。クーデター後、人民党の要求を受け入れ、暫定憲法、そして恒久憲法を公布し、立憲君主制への移行を承認する。しかし、保守派の反乱をきっかけに人民党政権との関係が悪化し、最終的に王位を放棄することになる。
- ピーブーンソンクラーム元帥 (ルアン・ピーブーンソンクラーム):人民党の軍人グループの主要人物の一人。
- プレーム・ティンスーラノン:半分の民主主義(プラシャーティパタイ・クルンバイ)という概念を広めたとされる人物。
- プラヤー・パホンポンパユハセーナー:人民党の軍人グループのリーダー的存在で、1932年6月24日のクーデターにおける実行部隊の指導者。クーデター後、人民委員会の議長に任命される。
- プリーディー・パノムヨン (アチャーン・プリーディー):人民党の民間グループの代表的人物。フランスで政治や法律を学び、国民への富の分配を目指す急進的な改革案を提案した。後に大学の創設者の一人にもなる。
- 人民党 (カナラット):1932年6月24日にシャムの政治体制を絶対王政から立憲君主制へと転換させたグループ。約100名で構成され、プリーディー・パノムヨン率いる民間グループとプラヤー・パホンポンパユハセーナー率いる軍人グループに分かれていた。「主権は国民に属するべき」と考え、自由、平等、教育、経済の安定、独立、安全保障という6つの原則に基づいて行動した。
音声解説:タイ1932年立憲革命:民主化の始まり
https://notebooklm.google.com/notebook/b22197e5-57d8-4064-9b39-3b53d02d9e0d/audio
タイの1932年立憲革命は、シャムが絶対王政から立憲君主制へと移行した非常に重要な出来事です。この革命は、当時の国内外の様々な背景が重なり合って発生し、その後のタイの政治・社会に大きな影響を与えました。
革命の背景(なぜ発生したのか)
1932年の革命以前のシャムは、絶対王政という政治体制でした。これは国王が国の全ての権力(立法、行政、司法)を掌握し、「国王は法律」という考え方でした。議会や選挙制度はなく、国民が政治に関わる仕組みは存在しませんでした。
この体制を変える必要が生じた背景には、主に以下の要因がありました。
- 政治的・思想的背景
- 中央集権体制の問題点: 国王やその近親者、一部の特権階級に権力が集中しており、これが行政の遅れや非効率、不公平な官僚制度を生む原因となっていました。
- 西洋思想の影響: 当時、上級貴族や王の指定、そしてラーマ7世自身も含め、多くの人々が西洋式の教育を受けるようになりました。特に、ヨーロッパに留学した貴族やエリート層は、自由、平等、民主主義といった思想に深く影響を受けました。彼らは帰国後、「なぜ自国には憲法がないのか」「なぜ一部の人だけが全ての権力を握っているのか」「なぜ国民は政治に参加する権利がないのか」といった疑問を抱き始めました。
- 新しい社会層の台頭: 若い官僚、中間層、知識人、海外で教育を受けた学生、新聞記者、商人、新しい専門職の人々などの間で、新しい社会の思想が広がり、「ナショナリズム」や「民主主義」といった考え方が、自分たちの社会を変えたいという意識を呼び起こしました。これは、従来の身分制度や特権階級による支配という伝統的な価値観への挑戦でもありました。
- 国際的な潮流: 当時、世界中で絶対王政が崩壊する動きが相次いでいました。中国の清王朝の終焉、ロシア革命、ドイツ帝国やハンガリーの帝国の崩壊など、こうした国際的な流れがシャム国内の変化への意識を高めました。
- 改革の停滞: 1932年以前から憲法導入の声は上がっていましたが、国王や保守的な上層階級からは真剣な反応が得られませんでした。ラーマ7世自身も憲法を検討したことはあり、憲法草案も用意されましたが、その内容は全上院議員が任命制で選挙が一切なく、「国民はまだ準備ができていない」という理由で公布が見送られました。
- 経済的背景
- 世界恐慌の影響: 1929年に始まった世界恐慌の影響を受け、シャムの主要輸出品である米の価格が大きく下落しました。これにより政府の税収が減り、財政が厳しくなりました。
- 緊縮財政と国民の不満: 政府は公務員の給料削減やインフラ整備予算の縮小など、緊縮財政を実施しました。この財政危機はラーマ6世の時代から続く問題であり、政府は赤字予算の編成や中下級の公務員を大量解雇しました。しかし、上級貴族や特権階級は守られたままでした。さらに所得税が上がったことで中間層の生活はますます苦しくなり、政府への不満が強まりました。
これらの背景から、**「人民党」(カナラート/Khana Ratsadon)**のメンバーたちは、「このまま待っていても改革のチャンスは永遠に来ないかもしれない」と考え、暴力を伴わない政治体制の変更、つまり立憲君主制への移行を計画しました。彼らは、主権は国民に属すべきであると考え、「自由、平等、教育、経済の安定、独立、安全」という6つの原則に基づいて行動しました。
革命の発生(どのように発生したのか)
人民党(Khana Ratsadon)は、約100人から構成されるグループで、主に二つの派閥に分かれていました。
- 民間グループ: 代表的な人物はフランスで政治や法律を学んだプリーディー・パノムヨンです。彼は後に富の国民分配を目指す経済改革案を提案し、大学の創設者の一人にもなります。
- 軍人グループ: リーダー的存在はプラヤー・パホンポンパユハセーナーで、1932年6月24日の政変における実行部隊の指導者でした。
1932年6月24日未明、人民党は行動を開始しました。
- 軍事行動: 夜明けまでには一部の王族を拘束し、軍の司令部、郵便局、ラジオ局、重要な橋などの主要施設を制圧しました。
- 国民への布告: その朝、ラジオ放送で「人民の布告」が読み上げられました。これは、「国家の最高権力は国民に属する」「国王ではなく、主権は全ての国民のものである」と宣言し、立憲君主制と国民の権利を基盤とした新しい政治体制の幕開けを告げるものでした。
- 市民の反応: 政変の際、バンコクの市民の多くは何が起きているのか分からず、不安と期待が入り混じった中で普段通りの日常を送っていました。応急周辺など一部の重要な場所では戦車や兵士が警備にあたり緊張感がありましたが、ほとんどの店は通常通り営業しており、銃声などの暴力的な出来事は全くありませんでした。
- ラーマ7世の対応: 当時、ラーマ7世はフアヒンのワン・クライトガンウォンに滞在していました。政変後、人民党からの要請によってバンコクに戻ることになりました。彼はすぐに賛成も反対もせず、提示された新しい憲法案を熟読してから判断したいと述べました。
- 憲法の公布と新政権樹立: ラーマ7世は6月26日に人民党の代表たちから国王への宣誓を受け、政変に関わった人々への恩赦に署名し、正式に認めました。そして6月27日には、「ラッタマヌーン・チャワカオ」(暫定憲法)を公布し、立憲君主制への移行を正式に果たしました。6月28日には、プラヤー・マノーパーコーンニティターが人民委員会の議長に任命されました。この時点ではまだ選挙制度が整っておらず、議員は全て人民党によって任命されました。その後、12月10日には、ラーマ7世はタイ初となる恒久憲法「ラッタマヌーン・チャパタン」を公布しました。この日は現在も憲法記念日として知られています。
革命の影響(どのような影響を与えたのか)
1932年の立憲革命は、タイの歴史に長期にわたる大きな影響を与えました。
- 政治体制の変化: シャムは絶対王政から立憲君主制へと移行し、国王は全ての権力を持つのではなく、憲法のもとで国家元首となる形になりました。
- ラーマ7世の退位と王室の影響力低下: 革命後、旧支配階級による反発、特に1933年10月に一部の王族や貴族、民主化に反対する勢力が武力による政権奪還を目指して起こした「ボーウォーラデートの反乱」が発生しました。この反乱は最大規模の武力衝突に発展し、内戦のような状況になりました。この出来事をきっかけに、ラーマ7世と新政権の関係が悪化。政府は国王が反乱に寛容であると疑い、国王も民主化への信頼を失いました。結果として、ラーマ7世は反乱のわずか3ヶ月後に国外へ出国し、1934年には王位を退位しました。この出来事により、多くの王族がタイを離れ、政治の中心は軍と人民党による体制へと移行しました。
- タイ初の選挙: 革命後の1933年11月1日から15日まで、タイで初の選挙が行われました。これは「観察選挙」と呼ばれる二段階方式で、有権者が直接議員を選ぶのではなく、まず各地域で代表を選び、その代表たちが国会議員を選ぶ仕組みでした。当時の投票率は約41.45%と高く、女性にも投票権が与えられたことは、当時の世界では非常に珍しいことでした。タイは女性の選挙権を認めた世界で4番目の国の一つとなりました。
- 「半分の民主主義」と政治的安定の欠如: 1932年の立憲革命後も、タイが国民の声が届く真の民主主義国家になったかについては、現在も議論が続いています。
- 頻発するクーデター: 憲法ができてから、タイでは13回ものクーデターが発生しています。時には軍が国民に銃を向けることもありました。これは真の民主主義とは言えないと指摘されています。
- 頻繁な憲法改正: タイではこれまでに20回もの憲法改正が行われています。国民が意見を出した憲法もあれば、クーデターの際に軍が一方的に作った憲法もあり、憲法が頻繁に変わることは政治体制が安定していないことを示しています。
- 「プラチャーティパタイ・クルンバイ」(半分の民主主義): 選挙は存在するものの、実際の権力は軍や官僚が握っているという概念が広まっており、現在のタイの政治状況にも当てはまるとされています。
- 選ばれない人々の影響力: 上院議員など、選挙で選ばれない人々が政治に大きな影響力を持っている現状があります。
- 教育とメディアにおける課題: 学校やメディアでは、自由や権利について十分に教えられていないと指摘されています。
- 若者の声と改革への期待: 最近では、多くの若者が「このままでいいのか」と問いかけ、真の民主主義を求め、政府、軍、警察といった全ての権力機関に対して透明性や説明責任を求めています。
画像投稿者のピムさんは、自身の経験から、1932年の立憲革命は学校では「早すぎた」と教えられ、国王が国民に権利を渡すつもりだったと学んだ一方で、大学で世界の流れの中で再考する機会を得て、それが世界的な必然であったと認識したと述べています。経済不安、周辺国の革命、タイの中間階級の台頭などが重なり、大きなうねりを生み出したと分析されています。
人民党の遺産は、建築、都市計画、思想の中にも今なお生きており、平らな屋根の建築、碁盤の目のような都市計画、広い道路やロータリー、身分制度を否定する思想、そしてプリーディー・パノムヨンの著作に現れる自由と公正な社会への思いに現れているとされています。
最終的に、現在のタイは憲法や選挙があっても、国民が自分たちの意思で社会や政治を動かしていると感じられるような「真の民主主義」にはまだ到達していないかもしれない、と評価されています。民主主義を進めるためには、権力を持つ人々が自らの利益に固執するのをやめ、国民一人ひとりが政治に関心を持ち、政府の動向を監視し、必要に応じて声を上げて問いかけていくことが重要だと強調されています。