タイの初の選挙は、以下のようでした:
- 実施期間: 1933年11月1日から15日まで行われました。
- 選挙制度: 「観察選挙」と呼ばれる仕組みでした。
- これは、国民が直接国会議員を選ぶのではなく、まず各地域で代表者を選出し、その代表者たちが国会議員を選ぶという二段階方式でした。
- 投票状況:
- 有権者数は427万8231人でした。
- 実際に投票した人は177万3532人で、投票率は**約41.45%**でした。
- 当時の基準としては高い投票率だったとされています。
- 特筆すべき点:
- タイ初の選挙では、性別による制限が一切ありませんでした。
- つまり、女性も投票することが可能でした。
- これは当時の世界においては非常に珍しいことであり、ヨーロッパやアジアにはまだ女性の選挙権がない国が多く存在していました。
- タイは、世界で4番目に女性の選挙権を認めた国の一つとなりました。
タイの1932年立憲革命は、その後の政治状況と国民の民主主義への認識に大きな影響を与えました。
音声ガイド:https://notebooklm.google.com/notebook/7d0e49f4-cf9f-4987-847d-c7dc3cdd1c7d/audio
その後の政治状況への影響
- 保守派の反発と王権の弱体化:
- 革命後、王室や貴族など旧支配階級による反発が起こりました。
- 1933年10月には、民主化に反対し武力で政権を取り戻そうとする「ボーウォーラデットの反乱」が発生し、政府軍と反乱軍の間で武力衝突が起き、内戦のような状況になりました。
- この反乱の影響で、当時の国王ラーマ7世と政権の関係が悪化し、政府は国王が反乱に寛容であると疑い、国王も民主主義への信頼を失いました。
- その結果、ラーマ7世は反乱のわずか3ヶ月後に出国し、1934年には王位を退位することになりました。この出来事をきっかけに、多くの王が政治統治の場を離れ、政治の中心は軍と人民党(カナラサドン)による体制へと移行しました。
- 不安定な政治体制と軍の影響力:
- タイでは初めて憲法ができてから、クーデターが13回も発生しています。時には軍が国民に銃口を向けることもありました。
- 憲法も頻繁に書き換えられ、これまでに20回の憲法改正がありました。これは政治体制が安定していないことを示唆しています。
- 「プラチャーティパタイ クルンバイ」(半分民主主義)という概念がプレーム首相時代に広まり、これは「選挙はあるが、実際の権力は軍や官僚が握っている」という意味です。この言葉は現在のタイの政治状況にも当てはまるとされています。
- 選挙で選ばれない枢密院議員などの人々が政治に大きな影響力を持っています。
国民の民主主義への認識への影響
- 教育と専門家による継続的な議論:
- 1932年立憲革命後、タイが本当に国民の声が届く民主主義国家になったのかどうかは、現在も学校や専門家の間で議論されています。
- 学校教育では、この革命は「王政から民主主義へと変わった日」と教えられ、また「シン・ソク・ハム(早すぎる)」という言葉が印象的で、タイはまだ民主主義の準備ができていなかった、ラーマ7世はもともと国民に権限を渡すつもりだった、と教えられてきました。
- しかし、大学での学びを通じて、革命は一部の人々の意思だけでなく、世界全体の流れの中で起きた歴史的な必然であったと再認識されるようになりました。戦後の経済不安、周辺国での革命、タイの中間層の台頭などが複合的に作用して、大きなうねりを生み出したと説明されています。
- 現代の国民、特に若者の意識変化:
- 現在、憲法や選挙があっても、本当の意味での民主主義をタイが手に入れたとは言えないかもしれない、と認識されています。
- 国民が自分たちの意思で社会や政治を動かしていると感じられる社会にはまだ達していないと感じられています。
- 最近では、多くの若者が「このままでいいのか」と声を上げ、本当の民主主義とは何かを問い続け、政府、軍、警察などすべての権力に対して透明性や説明責任を求めています。
- 国民、一人ひとりが政治に関心を持ち、政府の動向を見守り、必要に応じて声を上げて問いかけていくこと、つまり選挙の日だけでなく普段からの市民の行動が民主主義を育てる力になると考えられています。